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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)⑤

 「会津戊辰戦争」は、合葬の申請に対し、阿弥陀寺が藩の処刑場である涙橋に近いという理由で許可された経緯を記す。
 会藩の戦死者を阿弥陀寺に合葬せしは同寺は藩死の菩提寺であるためだという人あるが、それは誤りである。初め会藩の戦死者は其戦死の場所毎に最寄々々に仮葬せしが、之を合葬せんと出願せしところ、小田山の西南方畑地俗称五社壇を指定された。しかるに同所は古来藩士の馬や罪人を埋葬せし処にて、余り不浄地なれば他の地所をと出願せしに、然らば藩の処刑場は何れにあるかとの問いに、城西涙橋と答えた。然らば其近くに葬るべしとの命令なれしば、止むを得ず刑場に近き阿弥陀
寺を選んだものである。忠勇の仏も賊軍あつかいには当時の人も落胆したということである。
 戊辰戦争会津戦の遺体の埋葬にかかわる証言を確かめていくと、現実的には幾つかの段階があるようだ。
 まずは、御遺体が放置された状態があって、それから、とりあえず仮埋葬される状態になる段階がある。更に、それを本葬にするという流れのようだが、「会津戊辰戦争」が問題にしているのは、仮埋葬から本葬にするという段階の話らしい。
 この段階でもいろいろな方法があるわけで、それぞれの御遺体に適した埋葬地があるだろうが、選択された方法は合葬。
 政府軍となった西軍が示したその合葬地が、古くから藩士の馬や罪人を埋葬してきた不浄の地である小田山の西南方の畑地脇、通称/五社壇だったということらしい。それを交渉で阿弥陀寺に決めるのだが、それは、政府軍となった西軍が、城西流橋の藩の処刑場に近いという理由で納得したことによるらしいということだ。
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 戊辰戦争会津戦の遺体の埋葬について、会津には被害妄想的な感覚があるとされる政府軍となった西軍びいきの見え方も目にする。
 これも、被害妄想的な感覚のなせる技なのかどうかは、散策を楽しむだけの者には分からない。ただ、自分の感覚では、この段階でも亡くなられた方の尊厳を守ろうとすることとは逆の指示があったという事実はあったらしい事は確かなのではないかなと思う。
 現実的には、伴百悦の活躍として記される「遺体の始末」の証言では、例えば、二ノ丸の井戸に仮埋葬された(投げ込まれた?)方々は、「二ノ丸の井戸を堀たれど、堆積の死屍腐敗する悪臭」の状態で、(作業される方が)手出を逡巡する状態であったということでもあったようではある。
 寺の埋葬にしても、「寺中の屍を種々取扱しも多夥の骸何共なん術なきを以、北頭に仰並し上に蓆を覆い、其上に並列しては蓆を布き覆え、明々重畳して土を覆えば自然に成りたるなり」ということだったらしい。
 更には、「市外各村に屍骸は、若松への運集する費料無き為め、概談付にて仮葬せるが多いことを理由に、遺憾ながら(搬送を)止みたるなりと聞く」ということだったらしい。
 その証言には、確かに、現在では東北では消滅した身分制度にかかわる価値観もちらつき、「下級武士共」という表現も見える。取りようによっては、藩士の身分的なブライトが鼻に付くところはある。

 しかし、今回の大震災にかかわって亡くなられた方への思いを見れば、当時の価値観の中で、必死に死者の尊厳を守ろうとしてなかなかできないという苛立ちであり叫びであると見るべきなのだろうと思える。
 阿弥陀寺の変遷は、その思いが具現化していく姿なのだろうと、勝手に想像する。

 そして、今回の震災でも感じるのは、権力を手に入れられた方々は、どうしても人々の尊厳や理想よりも効率を重んじる方向に走るようになるというのは、昔から受け継がれてきた普遍的で伝統的な事なのかもしれないなとも思う。
by shingen1948 | 2013-08-29 05:58 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)