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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)④

 阿弥陀寺に鶴ヶ城の「御三階」が移築されたのは、ここに会津藩士が埋葬される事になった経緯とのかかわり。
 その御三階を鶴ヶ城に復元する計画については、2008年 10月に、「御三階」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7539364/
 2011年8月に会津に出向いた頃に、その鶴ヶ城の「御三階」復元計画に伴う復元調査工事中で、石垣が崩されているのに出会う。これを「鶴ケ城に立ち寄る~ようやく会津へ③」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13286023/
 整理していなかったが、その間の2010年1月に、鶴ヶ城から阿弥陀寺に移築された当時の様子が分かる写真が見つかったという報道を見た。この写真発見のきっかけは、この会津若松市が御三階を鶴ヶ城本丸に復元するのに事業とのかかわりらしかった。
 この写真整理の本来的な目的は、西会津町史編纂にかかわるものとのことだった。
a0087378_6263286.jpg
 それで、この「鶴ヶ城から移築御三階~明治20年代の写真か~西会津で発見、町史に収録【福島民報(2010/1/8)】」の報道は、御三階にかかわって報道されたものだが、阿弥陀寺の大仏の方も印象に残っている。
 写真は、大勢の人が御三階の窓から顔を出しているもので、御三階には長い梯子が掛けられている。道筋に人力車が3台並び、その道沿いに大仏も御三階も同じ方向を向いているのが、特徴かな。
 記事にはないが、その位置関係から、写り込んでいる門は、会津藩殉難者の合葬地に向かう門なのだろうと思われる。
 ここから、当時の阿弥陀寺の配置を想像すれば、現在本堂の東隣にある御三階は、当時は七日町通りに面した北西隅に東を向いて建てられていたということになる。そして、その御三階の右手に、東を向いた大仏が安置されていたらしい。
 その手前の門は、会津藩殉難者の合葬地を正面に当たる位置で、寺の出入りの門も兼ねているという関係性のようにも見える。

 現況は、この配置と違う。
 現況に配置されるようになる経緯を想像すると、多少順序にずれはあるだろうが、まず、大仏は門の左手に移動し西向きとなる。
 次に、この御三階の左手に鐘撞堂が設置されたかな。
 更に、南西の位置に、北を向いた阿弥陀寺の本堂が建設されて、御三階がその役割を終えたということだろうか。
 この御三階からのアングルで写された写真を目にするのは、役目を終えた御三階が、阿弥陀寺の東側に移築されて現況になるのに、時間的な経緯があったのだろうと想像する。

 最初に東向きの配置だったことについてだが、それが、会津藩殉難者の合葬地とのかかわりで矛盾がないということが大きいのだとは思う。しかし、それだけでもなさそうで、元々の寺の向きは東向きだったのではないかと思うのだ。というのは、旧参道の石柱が、東側の道筋に建っているのだ。
 むしろ、その後の会津藩殉難者の合葬に関わる整備による諸施設の配置とのかかわりの中で、寺の向きが変化して、現況になったという事なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2013-08-28 06:28 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)