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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)②~旧地情報

 阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)の旧地は、飯盛山である事は分るが、散策を楽しむ者としては、その位置情報が欲しい。
 その一つの情報は、「かの露座の大仏は、明治4、5年頃弁天山(飯盛山)下仁王門外左側正宗寺入口の上に西向にありけるを、町内有志者の移せるものなり」。
 仁王門の外左側で、正宗寺入口の上に西向にあるということだが、正宗寺の位置=山主飯盛山家の情報はあるが、当時の入り口と仁王門の位置情報がない。

 もう一つの位置情報が、明治初年の神仏分離令で、正宗寺は、寺を廃して厳島神社の宮司を選択するのだが、その時に「仏殿は神殿となり、本尊彌陀仏、さざえ堂三十三観音像、庭前の唐金大仏(一丈六尺)等は、他寺院に移転された。」というのだが、ここに「庭前の唐金大仏(一丈六尺)」という情報がある。
 とりあえず、二つの位置情報に矛盾がない位置を探れば、山主飯盛山の東側に仁王門を勝手に想像して、その左手の高まり(さざえ堂との間ぐらい)に唐金大仏を西向きに配置し、情報を読み直すと矛盾はなさそうだが、よくは分からない。
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 なお、飯盛山正宗寺が、歴代の領主より飯盛山霊域を拝領するのは、宗像神社(現厳島神社)の別当としての存在だったということのようだ。当時は神仏混合なので、寺が神社を守護し続けるのは自然なこと。
 こちらの情報では、阿弥陀寺に大仏(蘆舎那仏)が移設されるのは、明治初年の神仏分離令に伴う廃寺にかかわるということになっているらしい。

 ところで、「会津戊辰戦争」に掲げられる大仏と会津藩殉難者の合葬地が写る阿弥陀寺の写真は、大正年間から昭和4年の間に撮影されたはずだが、気になることがある。それは、この構図なら御三階が写り込むはずなのだが、それが見えない事だ。持ち合わせの情報では、阿弥陀寺の拝殿は、明治7年に松田一芥氏が北海道から来て(戻って?)、当地に残った藩士と共に建立したものらしいこと。もう一つの情報が、明治時代の御三階は、北西の道沿いの位置にあり、大仏(蘆舎那仏)は東を向いていたという事。
 それらを考慮して写真を見直せば、大仏(蘆舎那仏)は西を向いている。御三階は、まだ北西の道沿いの位置にあるということか、偶然写り込まなかったのかは分からない。
by shingen1948 | 2013-08-26 06:14 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)