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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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八重の桜番外編~甲賀町郭門口跡を訪ねる③

 「会津城下地図」をもとに、地図上に石垣や堀、土塁がどのように配置されていたのかの概略を、書き加えるとこんな感じかな。
a0087378_1442119.jpg 甲賀町郭門口は、道を挟んだ東側にも石垣があって、郭門はその間になっていたということのようだ。藩主が参勤交代で江戸へ向かう時に、見送る場所でもあったとか。また、戊辰の役では、滝沢峠方面から侵入した敵兵との激戦地でもあったことで知られる。
 
 この甲賀町郭門口の直ぐ東側に「六日町口」があり、西側に「馬場町口」がある。それ等の郭門口の現況は、郭門口跡自体は消滅しているが、川原町口とか花畑口とかとは違って、道筋が残る。
 土塁と堀を書き込むのに、「六日町口」附近は何となく、その道筋のヒントになるような痕跡らしき感じも地図上に残る。自分の原風景とのかかわりでは、「馬場町口」から南に進む「馬場口通り」は、公会堂の通りであり、若松市役所通りでもある。当時中心商店街である神明通りの北側は行き止まりだった。そこから北に進むのには、その西側の道筋に回り込むか、東側に回り込むかという事になるが、その東側の通りという感じもあったかな。

 ちょっと気になるのは、「会津戊辰戦争」では「甲賀町口の枡形門の西の枡形に鐘撞堂があった」という表現を使う。ここ全体が「枡形」という概念のようだが、形状的にはどうみても枡形ではない。
 甲賀町郭門は、元々は南側にあったのを改変したのではないかという情報を見つけた。出典は明らかにされていないが、現況の道筋がややカーブになっているという状況も説明できそう。状況的には確からしさは高いのではと思う。。【「会津トリセツ」の「(8)甲賀町口郭門跡」の記事より
 http://blogs.yahoo.co.jp/bwmsk/5490363.html
a0087378_14452126.jpg 参考にして、改変を操作で確かめさせていただいて、イメージをつかむ。
 元々の甲賀町口の道筋はⅠの赤の道筋で、甲賀町郭門は、石垣1と石垣3の間にあったとする。この時点では、石垣3と石垣2の間は土塁があって、枡形になっていたということだ。それが、紫のⅡの道筋に改変されたということのようだ。甲賀町郭門は、石垣1と石垣2の間に付け替えられて、そのまま直線で進んで、今までの道筋とつないだというイメージらしい。
by shingen1948 | 2013-08-23 14:47 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)