地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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八重の桜番外編~甲賀町郭門口跡を訪ねる②

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 住んでいる頃なら丹念に確認できただろうに、その頃にはそれ程の興味はなくて、今頃になって原風景の中の史跡を確認している。ただ、住んでいる頃は、史跡も日常生活の中の一部でしかなく、その余裕もないともいえる。この傍の奥の栄町庁舎の古い庁舎には、親父に関わる手続きで、何度も来ているのだが、風景を見る余裕などなかったな。
 日常を離れてみれば、外堀とのかかわりの中で見ばえするのはこの甲賀町口郭門跡で、訪れる観光客も多いらしい。それは、大手口であるここに高石垣が残っているからだろうと思う。
 この高石垣は、天神口ともいう熊野口と、その西側の外讃岐口にもあったらしいが、今は消滅。(讃岐口は戊辰戦争時にはなかったらしい)。

 「会津戊辰戦争」でも、外堀とかかわる土塁や堀が消滅することをぼやいているのだが、面白いのは高石垣が残っている結果になった事も、そのぼやきの中に入っていることだ。
 具体的にぼやいているのは、二の丸の城池や城郭の消滅と、この石垣の上に鶴ヶ城の鐘撞堂が移されたことだ。これを「若松市民会津を知らす゛嘆ずへし」と嘆き、「市当局者の深甚を望む」と訴える。
 この甲賀町口への移設について、明治4年4月に甲賀町口の枡形門の西の枡形すなわち現在の位置に移し、東を屈したと紹介している。

 視点を変えれば、この甲賀町口の枡形門の西の枡形附近に手を加えられたのが、明治4年4月で、東側の石垣は撤去されたり、附近の土塁や堀が消滅したりしたのもこの頃だということになるのだろう。
 ということは、この高石垣が残ったのは、この鐘撞堂の台座するためだったという経緯が読み取れるという事でもあるのだろうと思う。
 鶴ヶ城の鐘撞堂が移されたことは、ぼやきの一つではあったが、その事がこの高石垣が保存される一因にもなっていたということのようだ。
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 現在は、その鐘撞堂も元の位置に治まっているようだ。
 ついでに、この鐘撞堂の経緯も確認する。
 応永24年8月24日と彫付のある古鐘は、熱塩村示現寺にあったものだったらしい。その理由は分からないが、これを天正年代の頃に北の堂に移したのだとか。
明治4年に、甲賀町口の枡形門の西の枡形に鐘撞堂移された時の鐘は、その後、寛文年中に改鋳し、延享4年に再び改鋳した状態の鐘のようだ。
 「会津戊辰戦争」では、この状態を現況してぼやいている。この本、最終版発行が昭和4年なので、この時点まで甲賀町口の枡形門の西の枡形に鐘撞堂があったということのようだ。
by shingen1948 | 2013-08-22 06:12 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)