地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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八重の桜番外編~山本覚馬・新島八重生誕の地を訪ねる②

 「山本覚馬・新島八重生誕の地」から、観光客に案内頂いて「山本覚馬・新島八重生誕の地」の案内石柱の建っている場所へ向かう。
 ここに、「山本覚馬・新島八重生誕地は30m先」とあるので、30m東に向かって進んだ処という事らしい。
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 山本覚馬・新島八重生誕の地
 会津藩士・山本覚馬(1828~1892)は、砲術師範で日新館教授。1864年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転住。鳥羽伏見の戦いで囚(とら)われるが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献する。1875年、新島襄と同志社英学校(現同志社大学の前身)を創立した。
覚馬の妹・八重(1845~1932)は、砲術が得意で、白虎隊には八重が指導したという若者も入隊した。戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。城明け渡しの前夜、城壁に「明日の夜は何国(いづこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」と簪(かんざし)で刻んだ。
1871年、兄を頼って京都に転じ、1876年に新島襄と結婚。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めた。兄同様に、京都でキリスト教に入信。ともに洛東・若王子の同志社墓地に眠る。
なお、この碑は、この近辺にあった旧山本家を記念するため、宮崎家のご支援を得て建立し、1989年5月30日に除幕した。
 学校法人 同志社
 「山本覚馬・新島八重生誕の地」から、「山本覚馬・新島八重生誕の地」の案内板の場所へ向かうというのは、ちょっと変な行動だが、そのことでつながったこともある。
 その一つが、本屋で立ち読みした本とつながったこと。
 家に戻った後での話しで、何気なく本屋で会津に関わる図書を立ち見していたら、この碑の建立にかかわる記述を見つけた。その著者を確認したら、宮崎氏。案内板に「宮崎家のご支援を得て建立し、1989年5月30日に除幕した」とあるその宮崎氏なのだろうと想像する。
 案内板付記から、この碑は「学校法人 同志社」が建立したことが分かるのだが、1989年5月30日の除幕式には、同志社代表が臨席している写真も載っている。

 もう一つが、「山本覚馬・新島八重生誕の地」の案内板設置場所の向かいが大きな駐車場の広場になっていたことで、原風景と結びついたこと。
 昔、会津バス米代営業所が、米代二丁目にあったことを思い出したのだ。その後、会津タクシーの営業所に変わったという記憶だ。
 そのバスのプールがここだと思うのだ。当時、八重についての関心はまったくなかったが、その生家が、その会津バス米代営業所の道筋にあったという事での結びつきだ。
by shingen1948 | 2013-08-20 07:25 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)