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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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八重の桜番外編~花畑郭門口跡を訪ねる③

 昨日ふれた「土手は花春町」を確認すると、天寧寺町土塁(国指定史跡)のことのようだ。今回の花畑郭門口跡の整理とはかかわりない。
 なお、この土塁は、平成5年10月29日に、「甲賀町口門跡」・「三の丸堀跡」と共に、「天寧寺町土塁」が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたとか。その土塁の南側で遠藤花店後方が、天寧寺口郭門口跡であるという話らしい。

 花畑郭門口跡に戻る。
 この付近の南北に走る主要道路は、この花畑郭門口跡の西側を走る道筋だ。この道筋は、桂林寺町口(石田眼科南側)から主要道である「下野街道」と直線で結んでいる。
 しかし、当時のイメージでは、この花畑郭門口から諏訪神社正面に向かう「諏訪通り」の道筋が、主要道であったろうと思う。現在はこの道筋は消滅しているので、地図上で結んでみると、郭内の道筋と平行な道筋である事が分かる。
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 花畑郭門口から「花春口通り」を南下すると「花畑大通り」に出るが、西の「西通」に向かう道筋もあったようで、それがこの救世軍へ抜ける道筋と重なる。その「西通」は現在の大通りを越えて、昔の鈴常精肉店脇の坂道を下って、市営住宅が建つ手前附近を南北に走る道筋で、「花畑大通り」につながる。
 大河とのかかわりでみれば、8月29日、佐川官兵衛は西軍を排撃せんと決死隊を卒いて融通寺町口より出撃、長命寺の戦い等で苦戦する場面が描かれたが、その後、官兵衛は城中には戻らず、融通寺町口やこの花畑口を守って糧道を確保していたということ。

 会津籠城戦を確認していると、よく「石塚観音堂」が登場する。例えば、河原善左衛門家族の悲劇の話や、西軍の若松城総攻撃前夜の諏訪社の戦いの薩摩四番砲隊が構えた位置の話など。
 ここは、この花畑郭門口から西に向かった所だ。そこに向かう当時の道筋で確認する。
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 一番近道は、「西通」に向かう道筋を進んで、その通りから御厩町三番丁に向かって右折する。その道筋から湯川川筋沿いの道に出て、やや南進すると仮橋があり、そこを進むと正面にその「石塚観音堂」がある。その「石塚観音堂」を回り込んで進めば、木戸を通って、材木町の「下野街道」に抜ける。
 先の河原善左衛門家族は、川原町口郭門から郭外に出たとのこと。そこから石塚観音に向かうのは、「石塚前」の通りだろうか。城に戻る時には「南町口」を目ざすようなので、仮橋を渡って、右折して「御厩町一番丁」から「花畑大通り」に出てその通りを東進したのだろうか。

 思いだしたのが、現在の「湯川町」の辺りの地名は、昔は「厩町」だったこと。こちらが歴史を留める呼称だったという事かな。地図を確認したら団地名に残っているらしい。
by shingen1948 | 2013-08-14 05:46 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)