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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第30話「再起への道」③

 山川健次郎氏の脱出にかかわる部分は昨日整理したが、秋月氏の仕事としてまで確認したいと思った。先に「よそ見編」で、熊本での秋月悌次郎氏を整理していたこととのかかわりだ。
 この時に、この山川健次郎氏に将来の会津を託すというエピソードにも、氏の大きな仕事の一つだったろうと思えたからだ。それで、今回は山川健次郎氏を脱出させる前に、秋月氏自身が奥平氏に直接会うことになる部分を確認しておく。

 まず、奥平謙輔氏が秋月氏に私信を託すのが、この展開の始まりだが、位置のイメージは、会津坂下町。
 鶴ヶ城が開城した翌日(9月24日かな?)、長州藩干城隊は、越後戦線にあったのだが、その一部が会津坂下の代官屋敷を本陣として駐屯した。その参謀が、奥平謙輔が参謀とのことだ。
a0087378_11435086.jpg 今までの散歩とのかかわりを確認すれば、その位置は、代官所に視点を当てれば、先に「河沼郡を意識する」と「会津坂下宿街並み」で整理した中央公園のあたりなのだと思われる。代官屋敷という言い方なので、代官屋敷と役人の住居があった所との案内がある町役場辺りなのかも知れない。こちらなら、「坂下町道路元標」で整理している。
〇 河沼郡を意識する
 http://kazenoshin.exblog.jp/16913823/
〇 会津坂下宿街並み
 http://kazenoshin.exblog.jp/8813282/
〇 坂下町道路元標
 http://kazenoshin.exblog.jp/16901810/ 
 この奥平謙輔氏が、秋月氏の心中を慮(おもんぱか)って書をしたためる関係性だが、かつて、悌次郎氏が萩の明倫館で長州藩士に漢学に講義したことがあったことの縁らしい。その長州藩士の一人に奥平氏がいて、その恩師への私信が昨日整理の山川健次郎氏の脱出につながるということだ。
 ただ、この時点で、降伏藩士に私信を届けるのは容易ではなく、その適任者と思い当たったのが、僧の河井善順とのことだ。
 この河井善順という方は、「落花は枝に還らずとも (中村彰彦)」では、「真竜寺 智海」と紹介される方らしい。できれば公式なページに近いところで確認しようとしたが、確認できなかった。今回の整理では、情報源として会津藩士幕末辞典の「河井善順」の項をお借りする。
 http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame11/jinmei-ka.htm
 奥平氏が、適任者として思い当たるのは、この中の以下の事実の部分かな。
 「元治元年(1864)の禁門の変で、敗走してきた長州兵を隠匿したとして会津兵が西本願寺を焼き討ちにしようとしたのを、自ら会津藩首脳を説得してこれを未然に防いだ。」
 この関係性の中で、まずは長州藩士奥平謙輔と秋月悌次郎が、手紙を通して結びつく。

 秋月氏がすごいのは、この答書を善順氏に頼むのではなくて、善順氏に案内させて、自らが直接会って手渡そうとするところだろうか。秋月氏は、頭を丸めてにわか坊主になった小出鉄之助氏と共に、寺僕に変装して謹慎所を脱走し、無事に坂下に到着するが、この時には総督府が越後の水原に設置された事に伴い、奥平氏が移動になっていた。秋月氏は、そこからも、その後を追って新潟で無事に秋月氏は奥平氏との再会を果たしたという。
 この時に、秋月氏は会津藩の将来の担わせるべく、二人の少年の教育を奥平氏に依頼して、昨日整理の山川健次郎氏脱出につながるという経緯らしい。

 この時に秋月氏が詠んだのが、「故ありて北越に潜行し、帰途得るところ」と題された「北越潜行の詩」といわれるものだとか。
by shingen1948 | 2013-08-05 11:44 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)