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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」⑦

 ドラマでは、秋月が直接的に西軍に交渉に出かけているが、実際は会津藩の恭順を勧めたのは米沢藩で、土佐藩に仲介を委ねて秋月を西軍と接触させているらしい。
 実は、このこととかかわる重要な事は、福島で起きているらしい。ただ、おらが福島には直接的にはかかわらず、おらが殿様もかかわっていないというか、知らない出来事で、米沢藩にとっては重要な事というかかわりらしい。
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 7月29日に、二本松城が陥落すると、福島藩藩主が米沢藩に逃げ込んだが、戻された事については先に整理した。米沢藩は、この時に新たな福島方面藩境防衛として、藩境を越えた最初の集落である庭坂村に本陣を設け、ここに宮島三河率いる大隊が派遣されている。その場所がここらしい。
 米沢藩にとっては重要な事も、同じ頃に、ここで起きているらしいのだ。

 「伴 権太夫」を「ウィキペディア・フリー百科事典」で確認すると、江戸時代後期の土佐藩士で、迅衝隊軍監の身分が紹介され、米沢藩無血開城の功労者の一人と解説される。その「米沢藩無血開城の功労」に関わる事については、以下のように説明される。
 旧暦8月18日、白河から二本松に転戦した迅衝隊は、上杉斉憲の正室が土佐藩主・山内豊資の娘・貞姫であったため、米沢藩の行末を案じて、急いで伴権太夫・谷千城・片岡健吉らが連名して米沢藩に恭順を勧める書状をしたため、隊士の沢本守也に庭坂本陣まで届けさせた。
 この庭坂本陣まで手紙が届いたことが、米沢藩降伏に大きく貢献しているらしいのだ。
 ここからは、米沢藩を中心に整理される「上杉家の戊辰戦争」のページから、関係する部分を拾い読みさせていただく。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/index.html
 この時点で、確かに福島藩士を福島に戻して、宮島三河率いる大隊を派遣してはいるのだが、その一方で、越後方面の藩境では、その奪回の野望が費え、戦況が絶望的になっていたという状況でもあったらしいのだ。
 そこに、婚戚関係のある土佐藩の谷を始めとした土佐藩幹部3人が、わざわざ恭順を進める書状をよこしてくれたことに、米沢藩首脳部の心が揺さぶられたらしい。
 米沢藩は、2日後の8月20日に、参政木骨要人と役所堀尾保助を仙台藩に派遣したらしい。23日に到着すると、執政坂英力等と会談し、26日には、木骨等は、坂と共に仙台城を訪れ、執政石母田田島・遠藤主税と会談し、米沢藩が新政府軍への恭順に傾いてる旨を伝えて、仙台藩もこれを了承したという。
 木骨等は、仙台藩の理解を得て帰国するが、仙台藩に派遣されていた間の21日には、大里峠の陣に、下関の豪商渡辺利左衛門が密使として訪れ、芸州藩隊長寺本栄之助から託された恭順を勧める書状が渡されるという事もあって、恭順の手続きが進められ、最終的に9月10日に降伏する事になるらしいのだ。

 降伏した事によって、西軍に会津討伐と庄内討伐とが命じられて出兵するが、ここからドラマにつながる。
 その討伐軍の参謀や大隊長は、主戦派だった方がその任についたということらしい。この主戦派だった方々が、その任についているという事が、会津藩の信頼関係とかかわって、恭順への説得力の一つになっていたのではないかなとも思う。官兵衛が憤慨したしたというのも、感性的にこのかかわりで納得できるかな。
 なお、先に「長命寺の戦い」を整理したが、「ウィキペディア・フリー百科事典」には、「伴 権太夫」は、会津藩が相手にした土佐藩士の中の一人として、大石弥太郎等と共に、谷干城を援けてめざましい奮戦を見せたと記している。

 もう一つの雄藩仙台藩だが、米沢藩が相談したことで、仙台藩は米沢藩が西軍への恭順を考えていると知った訳で、この事が、仙台藩が西軍に降伏することに傾くきっかけの一つにもなっただろうことは想像に難くない。
by shingen1948 | 2013-08-02 07:15 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)