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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」⑥

 ドラマでは、降参の旗をつくる婦人達の様子も描かれた。
 「会津戊辰戦争」の八重の言葉では、降参の旗の作成と、その旗の掲げられたところが語られる。
 降参の旗は、長三尺巾二尺位で、小布を多数集め漸(ようや)く縫合したもので、之を縫ふ人達は泣きの涙で針先は少しも進まなかつたと申して居ました。之を一間半位の竹竿に結びつけ、3個所に立てた。一本は正門前の石橋の西端、一本は黒鉄御門の殿様の御座所の前、他の一本は判りません。
 「会津戊辰戦争」本文では、降参の旗の作成については、次のような事情を記す。
 当時白布は既に包帯としてに使用しつくしたるを以て、漸く(ようやく)白の小片を縫い合わし、辛(かろ)うじて降参三旗を得たるも、婦女子等共に断腸の感に打たれ、熱涙滂沱(ねつるいぼうだ)、旗為に濕(うるお)ひたりといふ。
 旗の掲げられた所については、「9月22日、午前10時、城中降旗を追手門前、今の若松区裁判所前の石橋の西側に樹つ」とする。
a0087378_5451145.jpg
 八重の言と合わせれば、一間半位の竹竿に結びつけられた小布を多数縫い合わされた白旗が、若松区裁判所前の石橋の西側に立てられたということのようだ。
 そういう意識でこの辺りの散策はしたことがなかったので、ネットで確認して行くと、「鶴ヶ城入り口」の標柱の所に、石橋らしきものがみえる。多分、この石橋の右手にその旗は立てられたのだろうと想像する。
 当然、持ち合わせの写真も無い。townphoto.net「市役所~鶴ヶ城 の風景・街並み紹介」の「北出丸大通り(旧 甲賀町通り)」から、この「鶴ヶ城入り口」の標柱の所に、石橋らしきものがみえる写真をお借りした。
 http://townphoto.net/fukushima/turugajo.html
 「会津戊辰戦争」では、この旗を見た柴五三郎翁の話が紹介される。
 当日、御玄関先に降参と認めたる一旗の白旗あるを見、非憤に堪えず、竹村幸之進と共に切歯扼腕(せっしやくわん)して居る処へ、立石悦之進が来たので、これを見よと指させば、悦之進一目之を見ると、噫(ああ)残念と泣きくづれてあった。実際遺憾なりし云々。

 この方は、「ある明治人の記録」の柴五郎氏のお兄さん。この時、柴五郎氏はまだ幼く、一の堰の戦いのあった近所の山中別荘に過ごしていた。
 その柴五郎氏の立場から、どう見えていたかを確認する。
 一ノ堰、飯寺辺に盛な戦があった後、一、二日たつと、私の長兄が負傷して扶けられて私の居た在所に来て、そこに一緒に隠れていた。九月二十三、四日頃になって、城下の鉄砲声が全く止むと、落城になったと言う事が伝わって来たが、精しい事は一切解らず、唯殿様は滝沢の妙国寺に立ち退いて謹慎して居られ、城中の藩士は猪苗代に送られ、城外に働いていた藩士と城中に居た藩士の家族とは、塩川浜崎辺に集められたと言う噂である。城下へは町人百姓の外は一切入れないので、私は農家の伜の風をして人に連れられて、吾屋敷の焼跡に行って家族の遺骨を拾い上げ、寺に納めた事がある。
 この様子、「ある明治人の記録」にも記される。
by shingen1948 | 2013-08-01 05:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)