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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」⑤

 「戊辰戦争日誌」で、「鶴ヶ城開城」前夜の様子を眺める。
 どの事がどれと結びつくのかは見当もつかない。複雑な動きの中から、その意図と行動とを丹念に結びつけていけば、ダイナミックな流れが確認できるのだろうが、そのつもりはない。これを眺めて流していくことで、いろんな動きがあったことを感じたいだけ。多分、説明される開城に至る経緯は、論理的に正しい情報なのだろうが、現実的にはその背景に渾沌とした状態があったはずで、それを擬似的に感じとる中で、整理された情報を確認すれば、気分的に開城への道筋の複雑さが感じられるのではという安易な考え。

 その整理された情報でも、9月16日辺りから開城に向けた動きと、死守しようとする動きが重なる。
 開城に向けた動きの一つ、ドラマでは添役の秋月悌次郎達が、まっすぐ薩摩藩参謀伊地知正治の元へ向かったように描かれる。実際は、その前に米沢藩から降伏を勧める使者が来ているようだ。「会津戊辰戦争」で確認する。
 まず、米藩は、佐川官兵衛を説く。ドラマで描かれるような好戦派の官兵衛が、説得を受け入れるはずもない。
 次に、米沢藩は、高久村に陣する萱野権兵衛に書を寄せて勧降する。ここで、書面が紹介されるが、そこで注目が「薩長の私兵と思考せしもの全く王師にして、仁和寺宮は既に錦旗を進めて塔寺に入り給うと聞く。我等之より王師に対抗すべき存念なし」
 ドラマでは曰くありげな錦旗だが、抵抗勢力を除いたり、降伏したりするのには効果覿面だったということのようだ。(著者は、注で「塔寺に入った」のではなく、「気多の宮遠藤清記方に入った」と修正。また、「仁和寺宮」は、「小松宮彰仁親王」だとする。)
 更に、ここには付記として「君公御父子の御存命は勿論減禄処分に止まるべし」とある。
 ドラマで描かれていた場面の前に、この書面が権兵衛から容保公に呈するように秋月悌次郎に託されたということがあるようだ。
 それで、降伏を申し出る使者として手代木直右衛門と秋月悌次郎が城を出る。これが、18日。まずは、高田に立ち寄って官兵衛の説得にあたり、ここで一泊しているとか。
 19日に、米沢藩陣所に向かったとするが、手代木直右衛門と秋月悌次郎の他に、桃川彦次郎も塩川に向かったとする。米沢藩陣所を頼っているのだが、それは「森台村」=会津若松市高野町森台らしい。
 20日に、三人が戻らないので、鈴木・川村を使者として出すとある。
 これで、降伏が偽りでない事が証明されて、21日に開城の令を示して、五人を城まで送ってよこしたというように説明される。
 ここに、石田氏の整理を加えれば、これ等は16日だとのことで、ずれはあるが、悌次郎らは米沢藩士針生虎之助の案内で、薩摩藩参謀伊地知正治の元へ送られたとする。また、使者となった藩士鈴木為輔、川村三助が、土佐藩の案内で、変装しながら追手門から土佐藩陣所へ向かったとし、ここで、為輔らと悌次郎らとが合流して、降伏へ向けた話をしたとする。

 別情報もあって、米沢藩陣地から帰城した手代木直右衛門と秋月悌次郎が、松平容保以下重臣に降伏を進言して、重臣間で議論が沸騰したとするのもある。降伏の使者についても、町野源之助・樋口源助・水島弁治・小出鉄之助が命じられ、町野源之助、樋口源助、城外へ出て新政府軍の陣営へ向うというのもある。

 隠密であったり、疑心暗鬼であったりする中で、いろいろな思惑が交錯し、いろいろな事が起こり、いろいろな情報が飛び交うという状況下で、開城という大きな流れの準備が整っていったということかな。
by shingen1948 | 2013-07-31 05:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)