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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」

 ドラマでは、総攻撃のあった翌日9月15日に、八重が心配するなか、父権八が閉ざされた補給路を奪還するために出陣する。
 これは、先に整理した官兵衛が、若松城の糧道を主として日光口と高田方面へ求めていることとかかわる。
 官兵衛は、越後方面より退却してきた一之瀬の部隊と連絡して一の堰で西軍を破ると高田方面へ向かうのだが、官兵衛と連絡が断ってしまった城内では兵糧が欠乏していったということのようだ。

 非常用の糧食を視点に「会津戊辰戦争」を拾い読みすれば、非常用の糧食倉庫は、城西貯蔵庫、18蔵、郭内5の丁にあったらしい。
 城西貯蔵庫から糧食を運搬後は、西軍の殺到に合って、それぞれに火を放ったという事情があったように読み取れる。なお、先にさらりと官兵衛が川原町口の二軒目小笠原邸の土蔵を仮営とするとしたが、ただ一つ焼け残っていた建物という事情も紹介されていた。

 その後の糧食確保事情も紹介される。
 まずは、米俵で築いた隠蔽物をほどいて、土俵に改めていくということが紹介される。
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 次に紹介されるのが、塩蔵に塩と一緒に、いつの時代のものか分からない多量の煮たタニシがあったとのこと。この非常食としてのタニシの素晴らしさが紹介される。
 今は天守閣見学の入場口でしかないが、まだ天守閣が再建されない頃にはここが見学のメインだったことを思い出す。天守閣を見学した時に、懐かしくて無意味に撮った一枚だが、ここに多量の煮たタニシが保存されていたということは知らなかったな。
 そして、更にもう一つの手段が、こっそりと城外に出かけ、野菜等を焼け跡から収集したりして補っていたということ。

 これ等が窮乏してきて、城西の西軍を突破して「糧道を開かんとして城南に戦ふ」ことになったとのこと。
 八重の父権八の出陣は、この戦いとの係わりだと思う。
 この「糧道を開かんとして城南に戦ふ」は、小田垣・青木村から西の大川沿岸にわたる広範囲の戦闘のようだ。多くの犠牲者が出たようで、「会津戊辰戦争」には、「会(会津)の戦死者」名が記される。ただ、ここには山本権八の名は無い。「山本権八(100石)61歳」は、「壮者に伍して戦死せし高齢者」の130名の中に紹介されている。
 なお、先にも触れたが、官兵衛は南方面出動中であって、この戦いには参加していないとのことだ。
 この日、飯寺村では、塩川熊倉方面から一の堰附近にあるものを合わせて9月15日午後一部をもって大川河岸に戦い、主力での背後を突くが西軍が奮闘して日没。城兵がまた出てこれを攻撃して中津黒羽の兵が退く戦いも列記される。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第29話「鶴ヶ城開城」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_29.html
 「鶴ヶ城開城」
 籠城からひと月近くが経った9月15日。八重(綾瀬はるか)が心配するなか、権八(松重豊)が閉ざされた補給路を奪還するため出陣した。新政府軍は1日に二千発を超える砲撃を加え、天守閣は無残な姿になりつつあった。最後まで会津の意地を貫こうとする家臣たちを前に、容保(綾野剛)はついに降伏を決意する。そして使者として秋月(北村有起哉)を送り込むが、降伏の嘆願が受け入れられる前に敵弾によって権八が倒れてしまう。「何があっても殿様は生きてください」と、八重のむなしい叫びがあった。

by shingen1948 | 2013-07-27 06:13 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)