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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第28話「自慢の娘」⑥

 長命寺の散策はしているが、主とする整理は、東軍の戦死者の弔い方の視点から抜け出ていなかったな。
 長命寺を訪ねた最初は、長命寺と阿弥陀寺の東軍の戦死者の墓地を訪ねて、「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6241382

 次の年にも「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる②」として、同じ視点で整理するが、そこに、戊申戦争の激しい銃撃戦があったことも付加はして整理しているが、「長命寺の戦い」に視点はなく、その弔い方に終始している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7542032/ 
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 今回は、長命寺の戦いの確認を加えて整理する。
 この長命寺の戦いについて、ドラマでは、前日のねぎらいで藩主容保公が佐川官兵衛を総督に任命し、宝刀「正宗」を与えて奇襲攻撃を命じるあたりまで丁寧に描く。それは、官兵衛が深酒で寝過ごし突撃が遅くなって散々な結果に終わったというエピソードを描くためでもあり、決死隊であることを描くためでもあるかな。
 この奇襲の目的を確認しておけば、膨れ上がった籠城者のための食料補給路の確保などのために、城の南方の西軍を排除して確保したかったということのようだが、確認していくと、これが下野街道(会津西街道)。大蔵の彼岸獅子入城の道筋に重なる。
 その下野街道(会津西街道)から郭内への入り口である花畑口とともに、川原町口・融通寺町口を、まずは確保したかったということのようだ。
 その長命寺の戦いは、籠城7日目の8月29日。
 ドラマで、慌てて飛び出す場面が描かれたが、「会津戊辰戦争」では、「凡そ千余人の決死隊を率いて棟門を出て融通時町口から出撃した」とする。
 地図を眺めると、棟門を出た兵は、川原町口まで大蔵入城の逆コースを進み、そこから北上して融通寺町口へ進んで、そこから打って出たのではないかなと想像される。(城を出てやや北上して、融通寺町口へ進む道筋もあるな。)
 この長命寺の戦いでは、確かに官兵衛の大失態もあり、犠牲者も多かったようだが、彼は、その後も米代小笠原邸土蔵を仮営として、融通寺町口、川原町口、花畑口を守り、川原町・材木町・柳原町を固守してはいるらしい。失態もあったが、課せられた使命である食料補給路確保の任は果たしていたということらしい。
 官兵衛は、ゲリラ戦では「材木町の戦い」大勝利に象徴されるように本領を発揮している。一ノ堰村方面の戦いにおいても勝利し、この遊撃軍の転戦で、仮営の米代一ノ丁の小笠原邸との糧道は確保されていたとか。
 九月の半ばを過ぎて城内で降伏の議が進められている頃にも、官兵衛は、高田を占領し、また田島にも転戦していたとのことだ。この官兵衛等が確保した道筋は、降伏のために必要な情報のやり取りに必要な道筋でもあったということでもあるようだ。
by shingen1948 | 2013-07-26 04:57 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)