地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第28話「自慢の娘」④

 藩主松平容保の前で、弾の仕組みを堂々と説明するという女傑ぶりを伝えるのは、会津藩士井深梶之助の「戊辰回顧談(昭和9年)」らしい。この方は、明治学院の2代総理となられた方とのことだ。
 「私が黒金御門に於て御側に奉仕して居る間は、無論種々の人が御前に出ましたが、今尚私の記憶に存するニ三の人を挙げる事に致しましょう」として、その一人として八重を紹介する。
 何日であったか、其日は記憶しませんが、敵の砲声が少し緩んだ時の時でありますが、未だ年若い一人の女性が大砲の弾丸を手に携えて、両公の御前に出ました。そうしてその中に畳込めてある鉄片を分解して、その構造を説明致しました。此は其事夫れ自体が驚異に値する事柄でありましたが、此の妙齢の女性は断髪、男装で、而も黒羅紗のマンテルに同地のズボンを穿いて居ました。此奇抜な女丈夫は、誰かとなれば、山本覚馬氏実妹、後の京都同志社々長新嶋襄氏夫人、八重刀自(とじ=年配の女性)で、数年前八十有余の高齢で逝去せられました。
 ここに、「黒金御門に於て御側に奉仕して居る間」とあるのは、殿様の御座所が、平素の御居間ではなくて黒金御門の内にあったという事情のようだ。その理由を以下のように記す。
 察するに、此処は比較的城の中央であり且三方から飛来する敵の砲弾に対しても、最も安全な場所であったからであろうと思われます。即ち此門は北に面して居て、天守閣の蔭に成って居て北方から来る砲弾から蔽われ居り、東西両方面は門の石壁で防御され、南方は比較的安全である上に、米俵を高く積上げ、只出入口が狭く開けてあったのであります。
a0087378_649810.jpg 今回の整理部分は、本丸での出来事。図書館掲示の絵図をもとにして本丸をイメージする。その御殿、現況が芝生辺りと想像してイメージを膨らませながら整理する。
 「両殿様は(鉄門の中の)東側の石壁を後にし、一段高い所に御二方御並で椅子に御腰掛に成ったように記憶します」とのこと。八重が説明をしたのは、そういう場の設定の中だったということのようだ。
 八重が、藩主松平容保と直接話をするのは、この時が初めてではないらしい。「会津戊辰戦争」によると、籠城戦2日目の8月24日に、夜襲に子供を連れていってよいかの伺いを立てているとか。
 八重は寝つけなかったので、前日に続いて一人で夜襲を試みようとした。すると、子供達に同行をせがまれたのだとか。「会津戊辰戦争」は、その様子を次のように記す。
 「翌24日の晩は妾(わたし)一人にて出撃せんと、夜暗に乗じ、御台所門より出て、太鼓門に来ると、11、2才の子供等10人許(ばか)り、何れも手頃の長さに切りつめたる槍を携へ、偉い元気で集合して居ました」。
 そのうちの一人が「是非(ぜひ)夜討ちに私共も同行を」と頼んだというのだ。

 この時に、八重は「わたし一人なら格別、子供等を同伴することは、一應殿様に御伺せんければならぬからと、子供等を待たして黒鉄御門に至り、此由(このよし)を申上ぐる」ということで、殿様に伺いを立てる。
 この時の殿様の回答が、「一同の健気な志は褒めて遣(つか)はすが、女や子供のみを出撃さしては、城中兵なき事を示すが如きもので、反(かえっ)て城中の不覚となるから差控へる様(よう)」との仰せ。
 「(殿様の)仰せなれば、其旨子供等にも、懇々と申含めて解散させ、わたしも止むなく出撃を中止しました」とのこと。

 昨日に整理した婦人子供の活躍のうち、砲弾の避け方や「焼玉押さえ」、更には砲弾を集めて再生産することなどには、八重が関与したであろうと想像するのが、8月24日のこの時に、殿様から、そこに居られた河原とし子・高木姉妹と共に、照姫の「御側役心得(おそばやくこころえ)」を命じられているからだ。
 今までは、あくまでも自主的な行動であったが、この時点からは籠城戦の組織の一員として認知された瞬間でもあったという事なのだろうとも思う。
 ドラマでは、この夜襲の相談を省いて、この2回の殿様とのやり取りを1回に集約して、焦点化したようだ。
by shingen1948 | 2013-07-21 07:02 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)