地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」⑥~「母成峠の戦い」②

 会津戦を視点に解説されるのは石筵からだが、西軍が石筵から母成峠にかけて進む道筋を詳しく掲げる資料を見ると、山葵沢から達沢へ抜けるとされる川村隊の道筋は、山葵沢の道筋の南道筋想定らしい。本道隊は第一、第二台場を経由して母成峠に向かう隊と、西高森を北に回り込んで銚子滝に出る隊にわかれるようだが、これが現ふれあい牧場から銚子滝に向かう道筋に近いのかな。そして、玉井からの伊達道だが、これもその道筋を追ってみると、川村隊と同じ道筋で進んで、村の西はずれで西高森の東側を北進する道筋をイメージしているらしいことが、想像できる。

 「母成峠古戦場記念碑」隣に据えられた石板に綴られる戦闘の概略を掲げておく。
a0087378_12204777.jpg 母成峠の戦いは、慶応4年(1868)8月21日圧倒的な兵力を集中して一挙に会津国境を突破しようとする東軍との間に戦われた戊辰戦争中最も注目される戦いであった。
 西軍総勢3000これに対する東軍僅かに800、戦いは前日の山入の戦いを皮切りに濃霧の中、終日行われたが、東軍は終に衆寡敵せず(多数と少数では相手にならないこと)北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。
 ここに110余年前に思いをいたしこの戦いに散った東西両軍の兵士100余名の霊を弔うと共に、この戦跡を永く後世に伝えるために、この碑を建立するものである。
 昭和57年10月6日 母成両碑建設委員会
 東軍殉難者埋葬地の案内板では、以下のように解説する。
a0087378_8535027.jpg 母成峠の戦いは、慶応4年(1868)8月21日、ここ母成峠周辺を戦場として戦われた。この日、本宮、玉ノ井村に結集を終えた西軍は、兵を3分し、谷千城(土佐)の率いる凡そ千名は、勝岩(猿岩口へ)、板倉退助、伊地知正治率いる凡そ千三百名は石筵本道口へ、川村純義(薩摩)率いる凡そ300名は山葵沢より滝澤口へ、一斉に進軍した。
 これを迎え撃つ東軍は、総数僅かに800名
 (※伊達道の)勝岩口には、勝岩(※=母成峠)上に、大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び会津二本松兵合わせて300名が守備に当たり、勝岩下には、新撰組凡そ70名を配置し、土方歳三、山口次郎がこれを指揮した。(※これが伊達道を進んで銚子滝から進む隊と本道から銚子滝に進んだ隊に対してということ)
石筵本道口の第一台場(萩岡)・第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中源之進・二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助等の指揮する会・仙・二本松及び伝習第一大隊併せて400数十名が守備に当たった。(※これが石筵本道を進んだ隊に対してということ)
 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前9時から凡そ7時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵力と火力の差は如何ともする事が出来ず、東軍は、北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。このため西軍は、22日16橋を突破し、23日戸ノ原口を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に殺到した。
東軍戦死者88名、西軍戦死者25名。
(※ 「萩岡の号砲」の萩岡は、山葵沢の手前離森山附近かな?)
 識者がここは簡単に破られやすかったと解説されるのではあるが、単なる散策を楽しむ者としては、この日程って、戦闘も想定しない単なる登山隊の行程だとしても、かなりきつい日程ではないのかなと思えてしまうのだ。
 玉井村発が21日で、母成戦が午前9時開始、午後4時には終結し、22日には十六橋を突破している。そして、23日戸ノ口原を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に殺到したとか。
by shingen1948 | 2013-07-04 08:52 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)