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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」⑤~「母成峠の戦い」

 「母成峠の戦い(ウィキペディア)」経過について記載される以下部分が、昨日整理の「山入村の戦」に重なる部分だと思う。
 
8月20日、二本松へ先制攻撃を仕掛けた旧幕府軍の内の一部隊が進軍中の新政府軍と遭遇し、坂下で前哨戦が行われた。伝習隊が奮戦する一方で、会津藩兵等は敗走したため、伝習隊は殿を務め白兵戦に慣れないため30余名を超える死傷者を出す大損害を受けたが、新政府軍の進撃を食い止めた。

大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」⑤~「母成峠の戦い」_a0087378_11384080.jpg ここから母成峠の本戦なのだが、確認したら「母成峠の戊辰戦争会津兵士戦死者の墓」しか整理していないようだ。http://kazenoshin.exblog.jp/4376718/
 これは、この戦いについての多くの方の整理があるという思いもある。しかし、それよりも、西軍の進軍について自分の頭でまだ整理されていないということがあって、中途になってしまったということだ。
 この戦死者の墓の脇には案内板がかかげられ、西軍進軍については以下のように解説される。
 この日、本宮・玉井に結集を終わった西軍は、兵を3分し、谷千城(土佐)の率いる凡そ1300名は石筵本嶺口へ、川村純議(薩摩)の率いる300名は山葵沢より達沢口へ一斉に進発した。
 ここでは3分した2隊が解説される。今から思えば、案内板に説明のない残りのもう1隊は、中山峠越えの陽動隊大村兵400だろうとの想像もできる。
 説明の脇に地図があって、そこには現地で西軍が3軍に分かれて進軍する図があるので、それと合わせているともとれる。
 伊達路を進む隊、中央の石筵口をそのまま進む隊とそこから西側の間道に進むいわゆる達沢口(中山口?)に進む隊、それとは別に中山峠越えの陽動隊大村兵400を加えるというイメージ。
 それで、この時には西軍進軍を以下のようにしたのだと思う。
 8月21日には、隊を4つにわけ、伊達路・中央の石筵口・西側の間道・中山口に進軍し、会津藩兵を圧倒する。これが、会津戦の悲劇の始まりである。
 これ等を石筵からの進軍と割り切ればそれで済むのだが、これらの隊は玉井村を出発し、山入を経由して石筵に至るはずで、これににこだわってしまうと分からなくなってしまうのだ。
 今は割り切って、この玉井村から山入を経由して石筵に至る部分については、西高森を南から回り込むか北から回り込むかはあるだろうが、少なくともここまでは同じ道筋ではなかろうかと想像することにしている。
 次の散策の機会には、解説される道筋は、石筵に入ってからだと割り切って、山葵沢から第一台場を南側に回り込んで達沢への道筋に抜けようとするのが川村隊300、そこから本道隊は第一、第二台場を経由して母成峠に向かい、西高森を北に回り込んで銚子滝に出る隊が、その第二台場に横から向かう状況になる状況というイメージの中で散策する事になるかな。
 玉井の通過部分とのかかわりだが、山葵沢から第一台場を南側に回り込んで達沢への道筋に抜けようとする川村隊300は、山入戦で第3軍が進んだ永峰から新田を通り、間黒より坂下地区を抜けて石筵に進むのが自然かなと思う。結局よく分からないのが、玉井からどの沢を抜けて行くのが伊達道だったのかなのかということになるのかな。
 昔、玉井村から伊達道を銚子滝まで抜けて、ここからチャーターしたバスで戻ろうという企画を耳にして、参加したいなと思ったが、小心者で体力に自信もなく諦めたことを思い出した。
by shingen1948 | 2013-07-03 16:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)