地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」⑤~「大玉村山入村の戦」②

 この山入村戦を、二本松城奪回戦とみれば、17日の二本松奪回戦に母成方面から進むはずだった同盟軍が間に合わず、一度母成に引き返した経緯とつながる。その再チャレンジとして決行日を20日とし、19日に山入村で準備を終えたところで、母成峠へ進軍途中の西軍と接触してしまったということになる。
 なお、山入村への入村の書出が多々あることを情報の混乱とする見え方もあるようだが、出来事を整理して行けば、その入村が事実であってもよさそうにも思える。言い伝えは素直に受け取った方がいいという散策人の勝手な思いかもしれないが、……。
 例えば、会津藩兵が母成戦半月前に入ってきていたということも、二本松城戦が7月29日の半月後という見え方とも重なるはず。直ぐ隣村の石筵村に火をつけて撤退するのは、二本松城戦後の出来事であり、その前後に会津藩兵がこちらまで様子を見に来ていことはあり得るとも。
 散策人の立場では、村人は女子供達を前岳の岩下に避難させて、男達は村を見守っていたというのを、二本松城戦とかかわるその前後の様子とみれば、辻褄が合うとも思っている。ましてや、その他の18、19、20日説などは、それぞれの立場によって入村日の違いとみれば自然だとも思う。

 これを母成戦の一環とみれば、敵が山入村を奪おうと玉井に集結したとの情報を得て、ここを守るための布陣をということになったということになるだろう。
 先に整理した「山入村の戦い~母成峠の戦い前夜」では、塩谷重七郎氏の「大玉村山入村の戦」に従って、二本松城奪回戦の見え方で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/4514660/
 どちらにしても、先に山入村に入った東軍は有利な配置になるのだろうが、母成峠の前哨戦という視点からすれば、積極的にこちらに布陣したことがよかったのかという観点が派生するかな。ただ、中山峠の陽動作戦にも客観的な分析で対応したとも見える。
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 先の整理時は、まだこの辺りの地理に疎い状態だったので、改めて「大玉村山入村の戦」を確認してみる。すると、ここに出てくる地名の大体が確認しイメージできるのだが、「手志子森」は推定しただけで確認しないままだった事を思い出した。それでも、自分としては、ここだと思い込んでいるということで貼るが、ここでよいのかどうかは分からないというお粗末。

 その他の位置関係は、おおよそ正確だと思う。
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 「手志子森」に大砲一門を有する伝習隊、「西の内」に仙台会津藩兵、「五の神」部落に二本松藩兵が陣取る。
 西軍の第1軍は、山入村攻撃隊。
 直接村道を進めば敵に発見されるので、「安達太良川」に沿って進む。これが、「黒沢地区」で伝習隊第二大隊と稲場周辺で衝突し、銃撃戦・白兵戦となり、これを撃ち破り、「西の内」地区の会津仙台兵に攻撃を加える。この「黒沢地区」で東軍戦死者は、9名。
 第2軍は、「本揃」から「小菅」に進む「手志子森」南側からの攻撃隊。
 これが、「元相応寺近郊の寺」で整理した戊辰戦争の際、官軍が銃撃した玉が、「正福寺」の雨戸を貫通して、本堂に弾痕の傷痕が残っているということとかかわるのだろう。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7438265/
 第3軍は、「永峰」から「新田」を通り、「間黒」より「坂下」地区を制圧する隊とのこと。(二本松藩兵陣の方へ向かう攻撃隊のようだが、この動きは把握していない。)
 そして、第4軍が大砲隊。
 この大砲隊は、「八坂神社」まで進出し、ここから伝習隊陣地を砲撃したという。その一発は「黒沢」地区に落下だったが、もう一発が、伝習隊第二隊陣地に着弾したという。その間に、「安達太良川」と「寺沢川」の流れに沿って歩兵部隊は潜伏して進んでいったのだとか。

 この時の東軍の両翼兵には戦意はなく、退却がはやかったので、伝習隊が奮戦するのだが、これが挟み撃ちにあってしまって、多数の戦死者を出して「手志森」に退却したという。その後、母成峠へ退却したとか。
 西軍は、夕闇が迫ったこと、21日の母成峠攻撃に備えるということで、警備兵若干を山入村に残し、本体は玉井村まで戻ったとか。
 この戦いで、西軍の戦死者4名、負傷者6名。この方々が臨時野戦病院となった玉泉寺に収容される。
 東軍の戦死者43名、多数の負傷者は戦場に放置され、見かねた村人が手当てをしたとか。戦死者は、黒沢地区の権現目山林中に穴を堀り、近くの31人の遺体を埋葬したとのことだ。その後、明治27年村民の有志が石碑を建てたとか。
 この石碑は、「山入村の戦い~母成峠の戦い」前夜の記事の時に使用した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/4514660/
 その後、平成3年に戦死者氏名碑が建てられるが、この事については、「玉井山入村の戦争・戦死者氏名碑」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/4529987/
 ここから母成戦になる。
by shingen1948 | 2013-07-02 08:50 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)