地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」⑤~「大玉村山入村の戦」

 先日、本宮町史を眺めていたら、明治3年1月に、「相応寺に戊辰戦争の際紛失の大釜を寄付」するという文書の紹介を見た。西軍が戊辰戦争時に、母成峠から会津に入るために玉井村に結集した具体的な場所情報の一つとして興味を持つのは、散策を楽しむ者の習性かな。
 具体的には、明治元年8月にこの寺は薩摩の本営になっていて、その時に大釜を無くしてしまったらしい。その弁償をするという文書のようだ。西軍の新政府軍としての律義さをも感じる。
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 散策の中では、この寺を慧日寺とのかかわりで整理している。しかも、その慧日寺を中興する方が、この寺で修行された方というかかわりも知って、「實雅のふるさとの寺~相応寺」として整理したこともあった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7429658/
 その寺が、戊辰戦争時には、玉井に集結した西軍の薩摩隊の本営になっていたということらしいということだ。
 ここは、会津へいたる裏街道を持つ村として、官軍(西軍)・幕府軍双方から戦略的に注目される。その結果として、ここの農民も使役のために徴用され、物資運搬や道案内等を行わせられる事になるわけだが、他にこの結集の場所提供というのもあったということ。
 塩谷氏の「大玉村山入村の戦」をもう一度確認すると、その主資料は在村の渡辺氏の「山入村の戦い」のようだが、その紹介の中にもう一つの寺玉泉寺が西軍臨時野戦病院になっている情報があり、玉井村名主玉応氏宅が西軍本営だったらしいとの情報も含まれる。
 更には、その使役のために徴用された武田氏の御子息が聞き書きした覚書という情報も含まれていた。

 今回は、西軍が村に結集した様子の紹介が気になった。
 以下のように紹介される。
 西軍は中山峠攻撃陽動作戦部隊を先発せしめた後、後続の本隊2600名は、人夫数百人を連れて3000名にふくれあがり、宿泊予定地の玉井村に4ツ半(午前11時)ころより二本松と本宮より続々と乗り込んできた。本営を玉井村主玉応○○○宅においたが、狭い玉井村は大混雑で周囲の村落にまで満ち溢れ、人夫などは野宿をする有様であった。
 そのうち、午後2時ごろ斥候によって山入村に東軍が陣地を構築中との急報が西軍本陣にもたらされた。
 ※ 斥候=地上戦闘の際、敵情、地形などを偵察、あるいはひそかに監視するため,本隊から派遣される単独兵または小人数の部隊。
 「大玉村史」に紹介される農兵として徴用された白岩村の渡辺氏が書きとめた「維新書留」のこの村宿営記述には、「寺は二家寺宿屋なり」との情報もあった。
 この時、玉井村民がどういう状態だったという情報はないが、実際にはこの時点で直ぐお隣の石筵村では、会津軍による焼き払いに合っているわけで、そんな中で、大量の西軍が二本松と本宮宿から集まってくるという混乱ぶりの想像はできそう。

 頭に入るはずもない「本宮町史」の膨大な借り上げ記録をぱらぱらめくって眺めていて気がついたのが、これは地区民の視点からすれば、おらが殿様に対峙する西軍がずっとここに留まっていたという記録のようなものということ。
 目にする戊辰戦争の戦史的な記述から、勝手に二本松落城後、ここから直ぐに会津決戦に向かうようなイメージを持つ。しかし、実際には二本松落城が7月29日で、この西軍の玉井村結集が8月19日ということで、その間約1カ月ある。大量の西軍は二本松と本宮宿を拠点に留まっていて、各種補給が行われていたということだ。その実感も大切な視点かもしれないなと思った。いや、本宮への滞在はその前からで、もっと長い。
 玉井村結集は、本宮宿からみれば、その留まった大量の兵が出て行くという事であり、玉井村からみれば、小さな村にそれ等が集まってきたという感性的なとらえがあって、それが、「大玉村山入村の戦」展開後にさっと引けていくというのが地域の方の見え方に近いのではないかなと思えてきたということかな。
by shingen1948 | 2013-07-01 08:58 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)