地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」④~二本松奪還戦(二本柳宿)②~

 「二本松藩戊辰戦史」では、以下のような塩沢方面の戦闘に遅れたという書出が紹介される。
 塩沢「鉄扇橋」へ向かう米沢藩兵・二本松藩兵は、16日夜に大森村を出て鉄扇橋に向かう。ところが、大雨で道が悪く打ち合わせの時間までに到着できずに、大森村まで戻ったらしい。
 それとは別隊で、裏塩沢村「天王山」の手前で引き返した隊、裏塩沢村「土樋」で引き返した隊、裏塩沢村「樽井新田」で引き返した隊もあるらしい。

 これが、「福島戊辰戦争年表」の「大森方面(米沢・仙台・二本松)・鳥渡方面(米沢・二本松)の軍は期を失し、飯野・川俣方面の軍(米沢・仙台・棚倉)亦進まず」と重なるのだろうと思う。位置的にみて、大森方面(米沢・仙台・二本松)と思うが、どうだろうか。
 これ等が、直接的に次の「大玉村山入村の戦」に結びつくのかどうかは分からない。

 塩谷重七郎氏の「大玉村山入村の戦」にある8月17日の二本松奪回戦にかかわって、これに母成方面から進むはずだった同盟軍が間に合わなかったという紹介がある。
 準備のために16日夕方に二本松藩兵の案内で峠を下ったのだが、道を間違えてしまって夜通し歩いて大玉にたどり着いた時には17日になっていて、その奪還戦に間に合わなかったとする。
 これが「福島戊辰戦争年表」にはない。「二本松藩戊辰戦史」では「大玉村山入村の戦」も母成戦の一環と捉えているように思えるが、その前の不明な出来事として以下のような行動を紹介することと重なるのだと思う。
 「書出によって、日付は違うが、二本松に駐屯する西軍を討つべく、会津藩兵、旧幕府兵と二本松藩兵が、12、13日頃に玉井村山ノ入まで来たが、手はず違いで引き揚げる。」

 「二本松藩戊辰戦史」では、「大玉村山入村の戦」も含めた母成峠の戦いを7月29日の二本松戦に帰城が間に合わず会津に向かった丹羽丹波等や二本松落城後に会津に向かった組頭大谷氏とのかかわりの中で紹介する。
 丹羽丹波は、二本松落城後に土湯から引き揚げる会津藩諏訪氏等の隊と出会い、一人でも多く会津国境警備を担う事がいいと言われ、星狭間を米沢いる藩主へ派遣して考えを伝える。
 8月1日は高森村、2~4日には酸川野村、5日には猪苗代に宿陣する。ここに、二本松から落ちてきた者も従えて、会津藩と協議して勝軍山へ向かう。二本松藩士の方々は、向かう日にちは違うが、向かう先はすべて勝軍山。
 要約すると、こんな感じかな。
 ※ 勝軍山=母成峠だろうか。
 その母成峠東軍兵力全体は、以下のようだと言われている。
 〇 会津藩兵200名(砲兵を含む)
 〇 旧幕府兵400名(内70名は新撰組)
 〇 仙台藩兵100名
 〇 二本松兵100名
 同誌は、その総兵力の800を、伊達道(玉井から会津への道)380、本道(石筵村から母成峠の道)420に配備して西軍を待ち構え、「大玉村山入村の戦」になると紹介する。

 なお、丹羽丹波が、二本松落城後に土湯から引き揚げる会津藩諏訪氏等の隊に出会ったとするこの隊が土湯撤退の折、土湯の全村に火を放っている。
 この事については、「土湯の太子堂へ行ってみて②」で以下のようにふれた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6158585/
 慶応4年(1868)8月2日、戊辰戦争の折りに、会津軍はこの村を撤退するときに、西軍の拠点になることを恐れて、土湯の全村に火を放ったのだが、この道を撤退していったに違いない。
 村には73軒の家があったが、71軒が焼け落ち、太子堂の上にあった会津藩への年貢米倉庫も焼け落ちたという。防火水槽の辺りだろうか。
 この旧道の道筋の会津側あたりを、「小峠古戦場を見つける」でふれるが、小峠古戦場とかかわるのが、世良氏暗殺前夜の仙台藩と会津藩の疑戦かな。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7225416/
 「高湯温泉と土湯温泉②:戊辰戦争の悲劇」では、米沢藩の高湯温泉焼き払いにもふれた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6207149/
 高湯温泉でも、戊辰戦争の焼き払いによって壊滅的なダメージを受けるということが起きている。そのことを、高湯温泉400年史は、以下のように記述する。
 元禄以降高湯温泉は、薬湯として名高かったので訪れる人が多く、2~30棟の宿屋で賑わっていました。
 それが中断するのは、戊辰戦争に巻き込まれたからです。新政府軍の侵攻に危機感を抱いた米沢藩が、防御を固めて国境の警備をやりやすくするために、高湯温泉を焼き払ってしまったのです。わずかに安達屋の蔵一つだけ残して、焼け野原と化したといわれますから、哀れむべき惨状を呈するにいたったのです。(中略)街道筋にあたる集落や、休憩地になりうる温泉地は、情け容赦なく火がつけられたのです。
 「十文字岳温泉地を訪ねる」では、二本松藩の焼き払いにふれた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/4587792/
 温泉の戦争被害は注目はされないが、それでも記録に残る。よそ見を大切にする者としては、ここから、記録に残らない多くの人々の被害にも想像を膨らませられるようになることが大切かな。
by shingen1948 | 2013-06-30 07:00 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)