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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」③~二本松奪還戦(二本柳宿)~

 本宮町史資料双書「福島戊辰戦争年表」では、以下のように整理される。
 〇 福島宿に結集の東軍、二本松総攻撃をするが敗退する
 17日各藩(東軍)兵を合して二本松を襲わんとす、丑刻(夜2時)総軍福島を発す、大森方面(米沢・仙台・二本松)・鳥渡方面(米沢・二本松)の軍は期を失し、飯野・川俣方面の軍(米沢・仙台・棚倉)亦進まず、奥羽街道本道の軍(山形・上ノ山・二本松)独り進んで日本柳に至る。忽ち西軍の撃破する処となる。
 二本松にて戦死仙台兵22名
 二本柳にて戦死二本松兵4名・山形兵1名
 殉難者31人
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 この記録では、二本柳戦死者は5名だが、二本柳東軍墓地は7名祀る。
 その差が何なのかは、分からない。
 
 「二本松藩戊辰戦史(相原秀郎)」では、この中の奥羽街道本道の軍の概要について、所属した二本松藩士の書出によって詳しく紹介する。
 大体の書出は、「二本松進撃とて二本柳まで進み諸藩が進み、少々戦闘の後引き揚げ」と記される中、佐野善兵門の書出が詳しいらしい。
 二本柳まで進むのは総勢600名で、二本松藩兵先頭で進軍したとか。
 「少々戦闘」については、二本柳宿に着くと、油井村裡手の山から多数の西軍が林から銃撃してきて、2時(4時間)の応戦で、遠藤藩士が足負傷したことが記されているようだ。
 引き揚げの部分も、西軍が取揚山の裏手から八町目村の西側の方へ裏から回ったようなので、東軍は打ち崩れ散々となって、八町目村から大森村に引き揚げたと詳しい。

 更に詳しい丹羽伝十郎氏の書出も紹介される。その概要を抜かせていただく。
 氏は、藩兵部隊の再編に伴って、高湯の馬コロバシの警備にあたっていたようだ。そこに16日朝にやってきた家老浅尾数馬介の命を受けて、組士等引き連れて庭坂に向かう。ここで、二本松進軍を正式に命ぜられて、福島に向かい午後6時に着く。
 午後8時に福島を発って、翌16日午前6時過ぎに八丁目宿に入る。ここで、西軍10人程が一般人に変装していたので銃撃する。仙台兵が、2人を捉えたが他は逃げたらしい、そのまま二本柳宿に向かう。

 二本柳宿での少々戦闘は、先に奥州街道を歩く一環として整理した以下の二本柳宿の概要が頭にないと分かりずらい。
 〇 二本柳宿のシンボル「二本柳」
 http://kazenoshin.exblog.jp/5845697/
 〇 二本柳宿
 http://kazenoshin.exblog.jp/5850225/
 〇 二本柳宿から八丁目宿に向かう奥州街道
 http://kazenoshin.exblog.jp/5854433/
 〇 二本柳宿で見落としたことを確認する
 http://kazenoshin.exblog.jp/5858624/
 ここで得た地理的な感覚を頭において、二本柳宿の少々の戦闘部分を読む。おおよそ次のような感じのようだ。

 丹羽伝十郎は、円東寺右裡手に布陣する。ここが本陣かな。ここで、向かいの山際の百姓屋に兵士のような者が4、5人見えたので、旗を振ったら銃撃してきたので応戦するようだ。応戦すると射撃が止んで、これが敵なのか味方なのかが分からなかったらしい。
 本陣を、円東寺の東の村外れに場所を変えたところで、元布陣した場所に兵士が14~15人出てきて、これが隊に向かってくるのだが、3丁(300m)程急に近づいてきてようやく敵と判明したという。
 しばらく銃撃戦となったが、西軍は段々と増加していって東軍が崩れ出す。
 防御も難しいので、引き上げ(撤退)となって、若宮村と清水町の間の胸壁のあった所まで引く(撤退する)。ここにいた二本松藩士種橋率いる兵約30名と仙台藩約30名の藩士3名相談で引き挙げることにして、清水町を過ぎて10丁(約1㎞)進んだ所で馬でやってきた旧幕府老中小笠原壱岐守に出会う。ここで軍議して引き挙げと決めたが、数日来の雨で道が悪くて伏拝で夜を明かすことにする。
 大森村に丹羽掃部助、本山大助等がいたので、18日にそこに入る。
by shingen1948 | 2013-06-29 05:50 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)