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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第25話「白虎隊出陣」②

 会津からの視点で重要なのは母成峠が破られるかどうかということだが、その母成峠の戦いの途中に「大玉村山入村の戦」がある。これが、同盟軍からの視点では二本松城の奪還戦の一貫らしいのだ。
 年表等では、その実施日8月17日の戦闘で奪還戦は終結するように紹介される。具体的には、福島方面から奥羽街道沿いに進んだ同盟軍が、二本柳で待ち構えていた西軍の反撃で退却して終結するということになる。
 しかし、この時に母成方面から進むはずだった同盟軍が、その準備に16日夕方に二本松藩兵の案内で峠を下ったのだが、道を間違えてしまって夜通し歩いて大玉にたどり着いたのが17日だったということで、その奪還戦に間に合わなかったということらしい。
 それで、一度母成に引き返して、再チャレンジ日を20日と決めて、19日に山入村で準備を終えたら、母成峠へ進軍途中の西軍と接触してしまったのが、「大玉村山入村の戦」ということになるようだ。

 それで、二本松城奪還戦から確認してみることにしたら、先に二本松落城前後の福島藩の動きを整理したが、その動きと重なって見えやすいように思えた。
 それで、その福島藩の動きを確認しなおす。
 まずは、福島藩主等が、7月28日に米沢に逃れる。
 次の動きが、7月29日の二本松落城を知った福島に残った福島藩士が、福島開城の具申をするために藩主のいる板谷宿(勝手に、李平宿ではないのかなと思っている。)に到着する。これが7月30日。
 ところが、米沢藩士に説得されて福島藩士は福島に戻るのだが、それが8月1日だった。

 二本松城奪還戦のスターは、李平宿が二本松藩の本陣とすることだ。
 実は、スポットライトが、二本松落城の悲劇に当てられて影が薄いのだが、二本松藩主丹羽長国や藩士家族も7月29日の二本松落城前に米沢へ逃れていたのだ。これが、二本松城奪還戦に重なる。
 「二本松藩戊辰戦史(相原秀郎)」で確認すると、二本松藩の本陣を李平宿(まで撤退して、ここ)で、藩兵部隊の再編をして二本松城の奪還を狙っていたという言い方になる。勿論、再編を終えると、藩主と側近の家臣、負傷者、病気の者、婦女子は米沢へ入ることになる。
 二本松藩兵は、再編に従って各所で警備に付く。この時の米は瀬上の足守藩番屋の在勤家臣から調達しているらしい。(「二本松藩戊辰戦史」では、足守藩主夫人が前二本松藩主娘であるとか、米沢藩が賄ったのではとかいろいろ記載されるが、そうでなかった可能性も……。)
 8月2日には、米沢藩士が兵を率いて上庭坂村へ滞陣するが、ここで丹羽掃部助(1000石二本松家老)と二本松回復を相談して、軍議で8月17日決行とするらしい。

 この二本松奪還計画が進んでいるという状況を重ねれば、米沢藩士に説得されて福島藩士が福島に戻り、藩主は米沢に向かうという状況になることに納得がいく。
 なお、奪還戦の翌18日には、土佐藩士沢本盛弥が信夫郡庭坂の米沢藩陣営に赴し和平に関する書簡を手渡すということになるらしい(原瀬日記)ので、福島藩士が二本松宿の鎮撫隊へ逃げ込むタイミングは、これらの雰囲気と重なるのかな。
by shingen1948 | 2013-06-28 06:17 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)