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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」③

 昨日白河城が落城し二本松城が落ちるあたりを確認したが、この間、仙台藩の動向は、副次的にスポットライトで照らされるが、間に挟まれた福島藩が注目される事はまずない。「福島藩就封300年~譜代大名板倉氏の治績【太田隆夫著】」は、福島藩の様子が詳しく整理されているのだが、当方が元々の地元でもないという事もあって詳しすぎて読み切れない。
 それで、この頃の福島藩が行動として関わることに絞って、情報として抜きとらせていただく。
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 福島藩が、長楽寺の軍事局からの要請があって、軍事係鈴木六太郎、杉沢核衛門が、総勢90余名を率いて出兵するのは、西軍が棚倉城を攻撃するあたりらしい。
 その棚倉城目ざして進軍する途中、二本松城下で会津藩一柳四郎右衛門から同盟軍敗走の情報を得るらしい。ここで、棚倉城進軍の計画を変更し、同盟軍の白河城奪還の総攻撃に参加することにして、矢吹宿へ向かう。
 その白河城奪還戦では、旗奉行の渋川市十郎、藩兵の浅井勇助、池田雄蔵、仁科忠右衛門、竹内啓五郎の戦死者を出す。
 この時点の東軍の情勢は、会津藩は勢至堂峠(岩瀬郡長沼町)まで後退し、仙台藩、二本松藩、福島藩兵は、矢吹、鏡石、須賀川まで次第に後退。
 この攻防が6月中旬まで繰り返されるというのが、福島藩の行動にかかわる見え方で、ここから昨日整理の6月16日西軍は平潟に軍監3隻を以て千余名が上陸したという情報につながる。

 この勢力の応援を得て棚倉落城が6月24日に落ち、7月13日には平城が落ちる。
 中通り、浜通り共に北上する事が出来るようになった西軍は、東軍の守る須賀川を避けて蓬田村に出て三春藩に迫るという状況だった。
 この頃に、福島藩は隊長渋川増太郎の一隊も出兵するのだが、三春藩が同盟脱退し、西軍に基準服従したために、郡山小原田に退却しているようだ。
 福島の長楽寺軍事局には、この頃まだ三春藩士大関兵悟が残っていたとか。
 それで、急用を口実にして従者2人を連れて福島を出ようとしたのが7月25日。ところが、途中福島藩士に拘束されて牢に送られていたのだが、そこで斬殺されたとか。
 これが、福島藩が同盟軍として行動する姿かな。
 その一方で、二本松城攻撃が近づいた7月27日には、藩主一行は米沢に避難するようだ。28日には藩士の妻子等も板谷・小野川に退き、藩主夫人等も米沢城下に落ち延びるとか。
 そして、昨日整理の29日の二本松の落城となるのだが、その翌日7月30日には、福島に残っていた藩兵が、福島城開城を具申するため、藩主滞在の板谷宿に向かっている。
 ところが、そこに居合わせた米沢藩兵が、自分達も福島に繰り出すから、引き返して戦えと申し入れられてしまう。それで、藩主は米沢に避難するのだが、福島藩士達は、藩主の閲兵を受けて福島城に戻ることになるらしい。
 福島城に戻った福島藩兵の中枢である福島藩参政内藤等21人が、密かに脱走して二本松城下駐営の東征大総督参謀に福島藩の謝罪嘆願したとのことだが、この時残された福島藩兵がどうなったかの情報は無い。
 密かに脱走した福島藩兵の方は、板垣の取り調べ後、彦根藩に預けられたとか。
 正式な行動としては、西軍が8月23日に若松城下に入った後の9月2日に、板倉勝尚が二本松に駐屯する西軍に謝罪し降伏し福島城を引き渡すらしい。密かに脱走した福島藩士によってその下段取りがなされたといつながりらしい。これが我が福島藩の行動の経緯概要らしい。
 中心となった方々の精神の支えは、無血開城になったことかな。ただ、自分には、しっぽ切りで残された身分の低い藩士の方々をつい思ってしまう。見え方が歪んでいるのかな。
by shingen1948 | 2013-06-23 06:19 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)