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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」③

 ドラマでは、八重の世話する日新館の救護所に傷ついた二本松少年隊員が運ばれてくるようだが、こちらはフィクションだろう。ただ、実際には救護所に二本松少年隊員が運ばれてきた話は残っているようだが、それは西軍の救護所の話。その事については、先に「二本松少年隊と玉井村」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5779649/
a0087378_534981.jpg 西軍の野戦病院になっていたのは、玉井村の玉泉寺で、そのこととかかわって、ここに官軍先鋒の長州藩の吉村熊之助と二本松少年隊の久保彦治郎と豊三郎兄弟の墓があるとの情報は、「大玉まるごと百選」から得ている。ここの住職の方とお話しした時には、そのことで東京の漫画家の方が訪ねてこられたという話はお聞きしたが、その墓に案内は頂いていない。
 なお、西軍兵士の墓は、長州藩士吉村熊之助だけでなく、薩摩藩士の伊座敷全之進、薩摩藩次郎、土佐藩士の近藤楠馬のまだ20歳前後の若者4名の合祀墓らしいとのことだ。この情報と二本松少年がここに運ばれてきた経緯は以下のようだったという情報の出どころは忘れた。
 豊三郎12歳は、大壇口の戦いで負傷して城に向かって撤退したが、二本松の城は落ちる。それで、岳温泉方面へ敗走し、会津の丸山方で傷を癒していたが、庭坂村に藩士達が集結しているとの情報を得て二本松に向う途中で倒れて、西軍の野戦病院になっていた玉泉寺に運ばれたのだが、11月に破傷風のために亡くなったとか。
 また、兄鉄次郎15歳も戦傷で、ここに運ばれたが、互いに同じ所にいることを知らなかったという。鉄次郎も12月に亡くなったとか。
 なお、庭坂村に藩士達が集結している時期のこの辺りの様子は、先の「山入り村の戦い~母成峠の戦い前夜」の記述と重なる。

 現地散策がより具体的なイメージを持つのは、概観的なイメージがあってのこと。その部分をドラマ視聴で補っているが、更に概観的なことについて、目にしている「二本松少年隊(長沢きよ)」で、白河口が敗れて二本松戦に至るまでの経緯を概観する。

 東軍は、須賀川に寄り、その他、大平口、勢至堂口等から繰り返し白河を奪還せんと企てていた。
 南方日光口も東軍は中々優勢であったので、西軍は第一関門白河を落としても会津の地へ進入できぬばかりか中通りの本道を北上する事も中々の仕事であった。
 西軍は平潟に軍監3隻を以て上陸した千余名の応援を得て、棚倉を陥れ、7月に至って平城を陥れ(7/13)、いよいよ中通り、浜通り、共に北上する事が出来るようになったが、それでも東軍の守る須賀川を避けて東軍の思いもかけない蓬田村に出た。
 そして、守山、三春の二藩は戦わずして相次いで降ってしまう。
 この頃西軍は既に浜通りでも中村城を降して、仙台に入らんとしつつあった。

 この「東軍は、須賀川に寄り」には、その中心に仙台藩兵が駐屯しているということだ。西軍はその「東軍の守る須賀川を避け」進軍し、「守山、三春の二藩は戦わずして相次いで」落ち、7月29日には、降伏した三春藩は新政府軍の先鋒隊となり、二本松藩に攻め込んだということだ。
 須賀川駐屯の仙台藩兵にしてみれば、二本松が落ちたら仙台に帰れなくなるとの動揺、お隣の福島藩では、次は我が地の動揺の中で、二本松としては、三春藩の裏切りと共に東軍の応援も無く落ちたという見え方もあるような気がする。
 これは、昔風にいえば同盟の瓦解だが、今回の大震災を経験したことを踏まえれば、絆とかという流行り言葉の瓦解かな。
by shingen1948 | 2013-06-22 05:37 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)