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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」②

 先の散策のうち、「二本松少年隊の悲劇」にかかわる大壇口の戦闘を中心にして、供中口の戦闘についてふれた。その先の戊辰の役にかかわる二本松市内の散歩は、二本松観光協会の案内に基づいて歩いたものだ。そのWav版は現在消えているようだが、その底本は、恐らく「二本松少年隊(二本松少年隊顕彰会編)」なのだろうと思う。
 この時点の状況を確かめると、守山、三春の2藩が戦わずして降伏し、西軍はその三春から二手に分かれ二本松に迫る。その一隊が、本宮に進んでこれを破り本道から大壇口に迫ったが、もう一隊が、三春藩が案内して、小浜から二本松の東の入り口供中口に迫る。そういう状況だったようだ。
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 先に「上之内(城之内)古戦場~白沢村糠沢」を整理した戦闘が、二本松に迫る2日前で、大壇口戦闘準備と同じ日だ。どちらの隊との戦闘だったかは分からないが、本宮戦争最大の激戦地であったとのことだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6484707/
 城之内は二本松領であったため、多くの二本松藩士が出陣していた。城之内の名主宅を本陣として樽井隊2個小隊が守っていたという。
 明け方薩摩軍数百名による一斉射撃の奇襲を受けて、二本松兵は即刻応戦したが、寸時に破れてしまったという。二本松兵は、和田・西荒井・平石・大平などを経て城下に逃れたが、130名中、生存者は僅か17名であったとのことだ。
 この中に、武藤定助(15)、田中三治(16)、岩本清次郎(17)、中村久次郎(17)が参戦していたとのことだ。岩本・中村は木村門下生とのこと。
 小心者で、奥までいくと軍卒合葬塔があるとのことだが、農家の脇を左に入るということで、確かめは出来なかったが、東軍の骸は地域住民が葬っているとのことだ。
 こちらは、合併で本宮市に編入されたので、現況がどうなっているかは分からない。

 二手に分かれ二本松に迫った西軍は、三春藩が案内で小浜から供中口に迫った隊が先に到着するようだ。とりあえず今目にしている「明治戊辰七十年を記念して(福島県師範学校)」の「二本松少年隊(長沢きよ)」で大壇口の描写を確認する。
 少年たちが「杉の間に大砲を据え、身を隠すため枠木を打ち込んで横に丸太を渡し、畳2枚ずつ並べて縄で括りつけて準備した」のが27日で、戦闘の2日前とのことで、白沢村糠沢戦闘の日のようだ。
 29日の大壇口の描写には、「29日は邊も見えない程深い霧である。遥か供中口の方に砲弾が聞こえたが間もなく止んだ」とあり、その後に大壇口の戦闘が描写される。

 「二本松少年隊(長沢きよ)」で確認できることがもう一つあった。それが、「二勇士の碑」建立の経緯だ。
 当時の敵将、後の野津大将が、明治31年の演習で御出になった時昔を偲ばれ、大壇口戦争で死んだ青山、山岡の二人の勇士のために「二勇士戦死之処」と題する記念碑を建てられたことから少年隊のこともおいおい知られるようになり、昭和5年10月には大壇口に「少年隊優戦記念碑」が建てられてその名を不朽ならしめるとになったのである。
 散策当時の二本松観光協会の案内板には、ここの記念碑について以下のような説明があった。
 ここには少年隊と二勇士の碑があり、当時西軍の隊長野津道貫の歌碑「うつ人も うたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば」と、陸軍大将従二位木越安綱の歌碑「色かへぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に残りけるかな」がある。
 この「二勇士戦死之処」にかかわる風景は、勝者のゆとりある思い出話がもとになっているということのようだ。
by shingen1948 | 2013-06-21 11:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)