地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」

 二本松藩の主力は白河城攻防戦に出動し、敗戦濃くその後退時の明治元年(1868)5月には、板垣退助の率いる支隊が、棚倉・三春を攻略して、奥州街道に入り本宮を占領し、二本松本隊の帰路を遮断している。
 霞ヶ城に残るものは、老幼婦女子と藩主側に侍するわずかの老臣のみの状態で、7月29日には、大壇口で敵の襲来必至の情報に、緊張して警戒にあたる中、未明に本宮を出発した西軍は、奥州街道を北進し、二本松軍の陣地に接触し攻撃を開始した。
 その大壇口での戦いは、「大壇口古戦場を訪ねる」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5755201/
 少年たちは古畳で胸壁を築き、銃や大砲で応戦したが、稚拙な武器では、たとえ大人であっても勝算はなかった。大壇口の激戦は二時間ばかりで破れ、隊長木村銃太郎は戦死、退却した少年たちも多くが傷つき、命を落としている。
 安達が原の「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」の後方である愛宕山に出陣した少年もいたようで、供中口古戦場を「安達が原の『供中口(ぐちゅうぐち)古戦場』」として整理し、その後方の愛宕山に出陣した少年を「小沢幾弥戦死と供中口の戦いの関連」として整理した。
 〇 安達が原の「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」
 http://kazenoshin.exblog.jp/5701399/
 〇 小沢幾弥戦死と供中口の戦いの関連
 http://kazenoshin.exblog.jp/5787720/
 これとかかわって、「大壇口古戦場は、二勇士の奮戦の地でもある」として、命を張って少年達を後退させようとする若者にふれたが、これは、スポットライトを浴びるのは少年達だが、それを支えた若者がいたというただのよそ見好きとしてだったと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5759633/
 このあたりを整理している時は、会津に負けない悲劇性に注目するのはどこか違うと思いがあった。しかし、何かが違うと思いつつも、何が違うかが明確でなかった。散策としては、悲劇性に注目した地を歩いている。

 今回ドラマとのかかわりで見直すと、少年たちの応戦が銃や大砲であることに注目すべきかなと思う。実際の兵器は旧式だが、それは大人側がかかわることで、重要なのは、幼さが先進性を素直に受け入れられる要素である事、そして、その先進性をもたらしたのが、大壇口で少年たちの命を守ろうとした若者たちだったという構図だ。
 ※ 記事を見直してみたら、慶応4年と明治元年が混在している。大意はなく、慶応4年9月8日から明治に改元に沿って記述したり、「慶応4年をもって明治元年とする」ということで、旧暦1月1日に遡って明治元年とするということに沿って記述したりしているだけだ。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第24話「二本松少年隊の悲劇」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_24.html
 第24話 「二本松少年隊の悲劇」
八重(綾瀬はるか)がかつて尚之助(長谷川博己)と共に訪ねた二本松領内が、新政府軍によって侵攻された。旅の途中で八重たちと交流した二本松少年隊も出陣したが、多くの少年兵たちが新政府軍の銃弾に撃ち抜かれ敗走する。深手を負った少年兵たちは八重が救護にあたる会津の日新館へと運ばれるが、懸命の手当てもむなしく息を引き取っていく。
 その後も会津は苦戦を強いられていた。白河口の総督として尽力していた頼母(西田敏行)は、容保(綾野剛)に再び恭順を主張するが受け入れられず、白河口総督の任を解かれる。
 会津城下に戦火が迫るなか、京都では覚馬(西島秀俊)が新国家への意見書を書きあげていた。
by shingen1948 | 2013-06-20 07:01 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)