大河ドラマ視聴「八重の桜」~第23話「会津を救え」⑦~会津藩の白河城奪還
2013年 06月 19日
世良修蔵殺害も閏4月20日だが、白河城を会津軍が新政府から奪い取るのもその日で、二人の方が遅れて福島に到着になった経緯もこの戦いにつながっているのだ。
この戦い、会津軍と仙台藩が呼応しているという見え方と、鎮撫隊の立場で、急襲されて奪い取られたという見え方が混在するようだ。
会津の散策と興味がつながるのは、その後の新政府軍が白河城奪還した方で、こちらは今まで省略されていた見え方だったかもしれない。白河の資料「【戊辰白河口戦争記(佐久間律堂)】をもとにした電子版」から今回の散策とかかわる部分を確認する。
白河及び白河城の管理だが、江戸無血開城以降の時点で新政府の管理下になっていて、当初は二本松藩がこれを管理していたらしい。朝廷は、慶応4年2月16日には、それを仙台藩管理に交付をしたという状況だったらしい。
会津藩が、始めて大平方面に兵を出し眞名子村に陣するのが閏4月16日だが、会津軍からの見え方としては、この頃の奥羽列藩は、白石会議後で会津藩討伐の意なく、ただ鎮撫総督の命をもって白河城に兵を置くという状態だったという。
その状況の中、鎮撫総督参謀世良が、18日に白河を去り、今回の福島での世良暗殺につながっていく。
ここでいう白石会議は、3月23日の最初の会合だ。「福島藩就封300年~譜代大名板倉氏の治績【太田隆夫著】」の福島藩の時間的経緯を確認すると、この日、福島藩では仙台の鎮撫隊本営から「会津討伐のため城内本陣とする」と命令され、勝顕氏はその対応に狼狽して、家族を連れて仏眼寺に移っているとか。
スポットライトを浴びる白石会議は、奥羽越列藩同盟に直接的につながる鎮撫総督参謀世良暗殺後の4月23日の会合以降で、この時点の会合はまだ影が薄い。
先の「白河の資料」でこの時期の白河城の守備を確認する。
白河城を守備するのは、奥羽諸藩中鎮撫総督の命を受けた仙台(三小隊)、二本松(兵員不詳)、棚倉、三春(二小隊)、湯長谷、泉、平等の諸藩。(4月7日に平・泉の両藩は、10日には討会応援として白河に出兵すべしとの命令を受けているとか)
二本松藩は城中守備で、三春藩は会津町の学館に、湯長谷藩は妙関寺に、平藩は常宣寺に屯営。
なお、4月3日には、仙台藩主伊達陸奥守の家来伊達筑前等が官軍の先鋒となって白河城に入り市中の取締をしている。また、旧小名浜代官も朝廷の郡司代として白河城にあった。
そして、4月上旬には、世良参謀が白河城本丸に入り、奥羽鎮撫使の標札を掲げて号令し、奥羽諸藩その指揮を仰いでいるという。
今回整理の福島の奥羽鎮撫隊の動きと直接つながるのが、白河の資料の下士大友左衛門証言とされる部分かな。
○ 閏4月20日早暁、敵軍の会津兵、幕兵彰義隊等は、白河城外平藩、三春藩の警衛場である会津町口、道場門を破って、火を放って城中に侵入してしきりに発砲する。その形況斥候の急報があって、城兵は能くこれを防いだ。しかし、衆寡敵し難く、防禦の術既に尽く、特に、野村十郎は、城兵を指揮して本丸を自焼し、遂に、横町口を破って出て、総軍は根田に退いた。
○ 敵兵(会津藩兵)は、白河を取る。城郭ことごとく焼失する。戦死1人(二本松藩)。
○ この日、醍醐参謀は郡山駅に抵り、白河に入ろうとしたが、城が陥るのを聞いて二本松に引帰った。
○ 会津藩は、翌21日には、下野・陸奥の両国の境に「從是北会津領」と書した標を建てた。
この戦いがいろいろな見え方につながっている。
少なくとも、城兵を指揮していた野村十郎氏は本気で戦っていただろうが、それにしては、戦死者1人(丹羽氏の家記)で、この日の会津兵力は「復古記」では総兵三百人と註し、実質百三十余人であったという。
これは、城を落とす事が余りにも容易であり、いかに城兵に戦意のないかが窺われるということだ。
世良参謀が、「奥羽皆敵」容易に鎮撫すべからずと考えて、東山道先鋒の伊地知参謀に書を寄せ、急を告げて白河に援軍を求めようとするのは、適切な見え方だったかもしれないとも思う。白河の資料では、世良が福島に着いたこの日に、仙台藩瀬上主膳、姉歯武之進等が、土湯口の荒井、鳥渡の陣を引揚げて福島に在ったことが世良参謀としての不運と見る。