大河ドラマ視聴「八重の桜」~第23話「会津を救え」⑥~世良霊神碑の被供養者から外された方
2013年 06月 18日

先に記したように、世良が暗殺された翌21日午後1時過ぎに、白河から戻った醍醐忠敬と長州藩士野村十郎氏は、城下入り口で、仙台藩士に下馬を命じられたが、無視したために仙台藩士平田小四郎に背後から斬殺されたとか。
この醍醐忠敬氏は参謀であり、組織上は下参謀の世良修蔵の上位に位する。その方のかかわりで亡くなられるわけだが、この方が供養されるようになったのは本来の姿ではなく混乱だというのだ。
いわれている事を鵜呑みにしているのだけなのだが、よく西軍の組織は、実質的な実権を握る少数と権威付けのための形式的な組織とで構成する事を得意とするとか。
奥羽鎮撫史の場合、総督は左大臣九条道孝、副総督が沢為量、参謀醍醐忠敬という方々らしいが、これ等が権威付けのための形式的な組織構成の方々で、実質的には何の権威も持ち合わせない。実権は下参謀の世良修蔵と大山格之助が握っているのは周知の事とか。
野村十郎氏の弔われ方というのが、その確認になるのかな。
氏の墓には甲子屋甚平という方がこの墓碑を建てられたらしいことが刻まれるが、今のところ、この甲子屋甚平さんがどなたかは確認できていない。
その隣りに、もう一人の中村小次郎氏が眠る。
この方も先に記したように、参謀醍醐忠敬氏と野村十郎氏より一日遅れるのは、足の負傷のため、駕籠で戻ることになったからだ。22日夕方には、若宮宿の阿弥陀堂前で、護衛の仙台藩士岡崎堅介、栗村五郎七郎に斬殺される。
霊神碑の被供養者から外された方は、このお二人のようだが、更にその隣に紀州藩山口忠右衛門安正氏が眠る。
この方がどなたなのかの手掛かりは、墓碑に刻まれる明治元年11月12日しかない。後で「清明学区の歴史」にその情報をみつけた。それによると、従軍途中に柳町の八島屋で病気療養中亡くなられた方とのこと。ここには、「佐世保海軍鎮撫府所属の遺子が訪ねて以来、どなたも訪れる方はなかったが、戦前までは「官修墳墓」として県からなにがしかの慰霊祭祀料が下贈されていたが、今はそれさえもない」とある。
この記述から、逆にこの3基が、戦前までは「官修墳墓」であったことが推測される。ならば、世良霊神碑の後方石灯籠と後方歌碑は、ここに建っていることを想像すれば、すっきりした風景になるのかなとも思う。