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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第23話「会津を救え」⑥~霊神碑の被供養者

a0087378_6303459.jpg 現在の霊神碑の左脇には勝見氏、右脇に儀助氏、繁蔵氏の名が刻まれる。しかし、最初の霊神碑には、被供養者として6名の名が刻まれていた事については、「第23話「会津を救え」②」でふれた。この時は、後方の二つの石灯籠と霊神碑の後ろの歌碑にかかわる整理で、6名から4名になった経緯や、外された2名のその後についてはふれていない。それにかかわる確認。

 福島の墓は「官修墳墓」だが、霊神碑であって、いわゆる墓は白石にある。その墓の改修経緯と、大正5年の改修時に霊神碑から2名の名が抜けるという経緯を重ねて見ると少し見えやすくなるようだ。

 福島の阿武隈川の川辺で処刑された世良の首は、白石にあった仙台藩本営に送られる。その埋葬についてはいろいろな経緯があったようだが、結局は傑山寺の末寺であり、城下外れ太平村森合にある真田幸村の菩提寺「月心院」に埋葬されることになる。その後の経緯だ。

 明治9年(1876)明治天皇の東北巡幸のコースに白石が入っていて、しかも、従者として参議の木戸孝允の名があるということで、急きょ世良の墓を改葬する必要性が生じた。
 それで、陣場山に墓所を改葬し、4月末には改葬なった墓に、世良の首の遺骸が移されて現在の形になり、6月の明治天皇の東北巡幸に間にあったということらしい。

 その墓石には次のように刻まれているとか。
 「明治元戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」
 「奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓」

 □の部分は欠字で、現在は削り取られていてどんな文字が刻まれていたかを判別することが出来ないが、「為賊(賊のため)」という文字が刻まれていたと伝えられている。
 その削り取りにはいろいろな憶測があるようだが、明治22年2月に大日本帝国憲法発布を記念して行なわれた大赦で、東北の戊辰戦争の責任を受けて賊名をこうむつた人達の賊名が取り除かれ、白石の役所が削り取ったというのが、確実性の高い情報。

 確認したい事とかかわるのは、その脇にある「勝見・儀助・繁蔵の墓」の方で、ここには次のように刻まれているとか。
 「明治元年戊辰ノ役 善太郎閏四月二十日ヲ以テ儀助・繁蔵二十日ヲ以テ奥州福島駅ニ於テ□所殺」
 □の部分の欠字「賊」は、同じ事情らしい。

 明治9年(1876)の明治天皇の東北巡幸に従者として参議の木戸孝允の名があることにかかわるらしい風景は、その前の石灯籠で、右側が木戸孝允、左側が当時磐前県令であった村上光雄の寄進した石灯籠とか。その日付が、明治9年6月23日で、明治天皇に付き従っていた木戸孝允が世良の墓に詣でた日らしい。

 福島の霊神碑だが、大正5年に改修されるようだが、これは前の碑が倒れたための改修だったらしい。ただ、これら白石の墓改修とのかかわりで、6名のうち、勝見・儀助・繁蔵の名が残り、2名が外れたと想像できる。
 自分の感覚とは少しずれるが、福島側の資料では6名の供養碑になった事の方が、本来の姿ではないように解説される。そうなった理由を、戊辰戦争の混乱で、当時の関係者が不明であったために、福島の地で殺された6名の供養碑になったという言い方になるようだ。

 主たる出来事が先にあって、その辻褄合わせに小さな出来事があるという見え方をすれば、少し見えやすくなるという事柄だったらしい。「□の欠字」も大日本帝国憲法発布大赦により過去の罪を赦する出来事らしいが、これも同じような見方をしてみると主たる出来事は、西郷隆盛が過去の罪が赦されて正三位が贈られるという事かな。
 これによって、その年に西郷隆盛像の建設の話が持ち上がり、明治31年(1898)年に、高村光雲らの制作による西郷隆盛像が上野公園に完成するという流れ。
 上記□の欠字の出来事は、その辻褄を合わせる出来事と見れば納得が深まるのかな。
by shingen1948 | 2013-06-17 06:43 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)