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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第23話「会津を救え」②

 立場を越えて、奥羽越列藩が戦争に向かって突き進むきっかけは、鎮撫軍参謀世良が、怒った仙台藩士らによって暗殺された事という見え方は普遍的かな。
 ただ、先にもふれたが、世良修蔵という悪辣な長州人一人が、その責任と決めつけていいのかどうかは分からない。というのは、奥羽鎮撫軍の冠をちらつかせれば、奥羽の各藩は、自ら会津藩と庄内藩を討伐するだろという仮説に基づく作戦は、世良個人の主眼ではなく、奥羽鎮撫軍としての方針だからだ。

 このことに関わる風景が、福島稲荷神社の世良修三の墓碑だろうか。
a0087378_645987.jpg
 「長州藩士まつる墓整備~大河で世良のシーン6月放送へ【福島民友(2013/5/10)】」とのことで、出かけてみたのだが、デジカメのカードが壊れた。
 http://www.minyu-net.com/osusume/yae/130510/handsome1.html
 それで、この写真は、先に「「浅草屋宇一郎の後悔」について再考する」を整理した時のものを使用した。後で交換したい。
 ただ、浅草屋宇一郎の後悔については、現時点ではもうちょっと違った視点が必要だと思っている。

 この墓の性格を報道記事に沿って確認すると、戊辰戦争後に福島入りした官軍が慰霊碑として建立した「官修墳墓」とのことだ。暗殺時に血がついた石を葬ったもので、世良の他、長州藩士4人の名前が刻まれているという。
 元々の建立場所が稲荷神社隣接地という縁から、この神社が管理を委託され、戦後はその境内に移されたとのことだ。
 今回の整備は、大河ドラマ「八重の桜」第23話「会津を救え」で世良のシーンが放送されることに合わせたもののようだ。今年3月から整備工事を始め、4月の半ばに完了した。門扉や塀などを改修し、新たに説明板を設置したという。

 その説明板の案内によると、霊神碑には、長州藩士勝見善太郎、松野儀助、従者繁蔵の4柱の名が刻まれているとか。これが側面で、裏面に「慶応戊辰閏四月二十日」が刻まれる。注目は、以下の説明にある前方の石灯籠にかかわる部分だ。
 この霊神碑を囲む4基の石灯籠のうち、碑の前方に建てられた2つの石灯籠の向かって右側は薩摩藩士黒田了介(後の清隆)が明治18年に、左側は、長州藩士品川与二郎が明治21年に寄進建立した。黒田と品川は元々奥羽鎮撫軍総督府の参謀に就任したが、その後その任を辞退し、代わって世良が参謀として東北に赴任する事になったとの情報がある。
 後ろの2つと右側の燈篭では確認できないが、左側の灯篭には確かに「品川」の文字と建立時期が確認できる。

 多分、世良が暗殺されたという情報は、お二人にとっては辞退が賢明な選択であったという確認でもあったと思う。その自負があったろうとは思うのだが、その代わりに、喜んでその任に着いた世良が殺害されたという結果でもあるわけで、これら一種の良心の呵責にさいなまれることでもあったということであったのだと思う。

 奥羽鎮撫軍総督府の参謀斬殺という結果は、その予感があって辞退が賢明な選択であったと納得しつつも、自分達の判断の結果が世良の参謀就任である。これが暗殺につながっているということであり、この暗殺された世良に関する彼らなりの責任の取り方が、石灯籠の寄進だったのではないかなと思うのだ。
Commented by TUKA at 2013-06-14 00:21 x
仙台城下で狼藉の限りを尽くし、権力を笠に威張りまくり、藩士を挑発し、彼らの暴走を誘発し、和議ではなく開戦に持ち込む、
という目的があったとすると、世良という人材は最適だったのかも知れません。

江戸では薩摩藩が使った手で、庄内藩士が釣られましたね。
Commented by shingen1948 at 2013-06-14 10:10
 確かに、奥羽自らの手で奥羽を鎮圧させるという方針も、短いスパンでは、仙台、米沢藩を中心とした抵抗でうまくいかなかったかにみえるのだが、長いスパンで見れば、大藩の秋田藩の裏切りをきっかけに、秋田の新庄藩、山形の天童藩、越後の新発田藩、そして、福島の三春藩によって、方針通りうまくいったという事でもありますよね。
by shingen1948 | 2013-06-13 06:53 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(2)