地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第22話「弟のかたき」

 鳥羽伏見の戦いでは、数では新政府軍の5千に対して、幕府軍は1万5千という圧倒的に幕府軍が優位。それにもかかわらず大敗する直接的な敗因は、戦略、戦術、装備、指揮官など多くの点で不十分だったということだろう。
 それにも増して、指導部の戦う意識と能力が欠如していて、将軍慶喜の決戦の気概は薄く、現場指揮官の軍隊指揮能力も高くなかったということらしい。
 それよりも、鳥羽伏見の戦いの時点では、既に現職老中を出していた淀藩や先鋒の家柄の津藩まで寝返る事態になっていたという状況であり、この状況は一連の過程の中でつくりだされた状況であるということだろうか。
 更には、これは時代の流れでもあることを加えてみれば、負けるべくして負けたということなのだろう。
 それでも、その敗戦の責任を問うというのなら、素人目には慶喜そのものに見える。教科書的には、勝海舟が命を懸けて新政府軍の江戸攻めを阻止し、江戸城無血開城に導いたという美談も、視点を変えれば、慶喜とその幕府に所属する者の生き残りをかけた、他の身内のしっぽ切りの一貫にも見えてしまう。
 何かあったら、江戸を救ってFのつくどこかを捨てるという状況は、どこかで見た構図にも思える。

 ドラマの会津の場面では、山本家には、覚馬は捉えられ斬首という知らせと、三郎死去の知らせと遺髪や衣服が届く。この時点では、覚馬の生存は分かっていない。
 覚馬の生存を知るのは、戊辰戦争後、八重家族が山形県米沢市に滞在していた時点だ。この時点では、父権八氏も会津戦一の堰の戦いで戦死している。
 山本家の男子が全ていなくなり、頼りは川崎氏一人という状況だったという事は、山本家の米沢市滞在それ自体も、覚馬の生存を知らない事もかかわるらしいことも想像される。
 【日本経済新聞(2012/9/28)】の「会津開戦時の様子伝える手記 駐在の米沢藩士ら」の記事によれば、当時、米沢藩からの会津駐在は数人おり、援軍を出すための情報収集などをしていたという。
 歴史研究家あさくらゆう氏は、山形県米沢市に約1年間滞在したことを、川崎に恩を感じていた内藤氏が、八重らを米沢に招いたとみているらしい。
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701Q_Y2A920C1CR0000/

 この記事をドラマとかかわらせて見れば、この頃、山本家には、米沢藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助が寄宿していて、藩校教授だった川崎尚之助の弟子になっていたという事になるらしい。
 また、鶴ケ城戦の前日には、「猪苗代城の兵士らが、猪苗代城に自ら火を放って敗走し、会津藩士が、『敵が攻めてきた。鐘が鳴ったら鶴ケ城に入れ』と言い回っているという状況だったらしいことと、戦いの当日の早朝に内藤らは会津の戦況を伝えるため、山本家で急いで朝食を済ませて米沢に出発するらしいのだが、この時の城下の様子は、辺り一面が黒煙に包まれ、銃丸が雨のように飛び交っている状態だったとか。

 もう一つ気になったのは、「大河ドラマ視聴『八重の桜』よそ見編②」でふれた、「山陽高等女学校行餘會(第42号)」の「白虎隊(故新島襄先生婦人談)」に、「白虎隊は15.16歳の子供で、素より士族の子弟であります。そのうちには、私が鉄砲のうち方を教へたものが3人もあります」にあった事とのかかわりだ。
 ドラマでは、そのうちの二人が伊東悌次郎氏・山川健次郎氏であり、もう一人が高木時尾の弟とみているのかなと思わせる。なお、山川健次郎氏についての解説「落城後、苦難にあえぐ会津藩の未来を背負って猪苗代の謹慎所を脱出、長州藩の奥平謙輔の助力を得、17歳でアメリカの名門・イェール大学に留学」とある「長州藩の奥平謙輔に助力」の画策は、まだ整理していないが、「よそ見編」の秋月悌次郎氏だ。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第22話「弟のかたき」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_22.html
 「弟のかたき」
 八重(綾瀬はるか)の元へ、都で弟・三郎(工藤阿須加)と兄・覚馬(西島秀俊)が落命したとの知らせが届く。しかし、三郎は遺髪や形見の衣服があるのに覚馬は無いことを不思議に思った八重は、「覚馬は死んでいない」と言い張る。近所の少年たちに鉄砲を教えながらも、少年を「三郎」と呼んでしまう自分に気付き、八重は「仇を討つ!」と叫ぶと鉄砲を持って城下へ駆け出していく
 そのころ覚馬は、薩摩藩士に捕らえられ獄中にいた。視力を失いながらも、何度も会津救済を願い出る覚馬。しかし、すでに西郷(吉川晃司)ら東征軍は江戸へと兵を進めていた。




 【日本経済新聞(2012/9/28)】記事内容

 「会津開戦時の様子伝える手記 駐在の米沢藩士ら」【日本経済新聞(2012/9/28)】
 戊辰戦争の一戦、会津戦争の始まりの様子を伝える文書を、奥羽越列藩同盟を組み、会津藩とともに新政府軍と戦った米沢藩の藩主の子孫がまとめていたことが28日分かった。会津藩に駐在した米沢藩士らの手記や証言を基にしたもので、藩士は来年のNHK大河ドラマのヒロイン、新島八重(旧姓山本)の実家に寄宿していた。
 文書は戊辰戦争後、米沢藩主だった上杉家が編さんした「米沢戊辰実記 会津部」で、山形県米沢市の市立米沢図書館に所蔵されていた。
 実記によると、会津藩の砲術師範を務めていた八重の父、山本権八の家に米沢藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助が寄宿。内藤は、八重の最初の夫で藩校教授だった川崎尚之助の弟子となった。
 実記では1868年8月の鶴ケ城(現福島県会津若松市)での戦いの前日、猪苗代城(現猪苗代町)の兵士らが猪苗代城に自ら火を放ち、敗走したとされ「会津藩士が『敵が攻めてきた。鐘が鳴ったら(鶴ケ)城に入れ』と言い回っている」などと、新政府軍が迫っている様子を記している。
 戦い当日の早朝、内藤らは会津の戦況を伝えるため、山本家で急いで朝食を済ませ、米沢に出発した。この時の城下の様子を「辺り一面が黒煙に包まれ、銃丸が雨のように飛び交っている」と表現している。
 米沢図書館や文書を発見した歴史研究家、あさくらゆうさんによると、米沢藩からの駐在は当時、数人おり、援軍を出すための情報収集などをしていたという。八重の実家は焼失し、八重と母親らは70年ごろの約1年間、米沢の内藤家に身を寄せた。
 あさくらさんは「内藤は川崎に恩を感じ、八重らを米沢に招いたのだろう」と指摘している。
 ▼会津戦争 1868年8月下旬から9月下旬、会津藩に加え、米沢藩などの奥羽越列藩同盟軍が新政府軍を相手に福島県内を中心に戦った。会津藩は鶴ケ城に約1カ月籠城して抗戦したが、降伏した。集団自決した白虎隊の悲劇でも知られる。〔共同〕

by shingen1948 | 2013-06-08 09:45 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)