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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第21話「敗戦の責任」

 1週間遅れになったのは、六魂祭整理にともなうものだが、22話を確認してから21話を整理することのよさも感じている。

 第21話では、会津の立場で二つの観点での死が描かれる。
 その一つが、テーマの「敗戦の責任」にかかわる神保修理の自刃。
 会津の軍事奉行神保修理は不戦論者だったため、総指揮官達の敵前逃亡で大坂城に残された将兵達のうっぷんをはらすそのはけ口として、自刃させられる。

 慶喜は、6日に大坂城に詰める将兵に対して、徹底抗戦を宣言するが、実際に徹底抗戦する考えはなかった。敗戦が続く中、津藩の寝返りによる幕軍総崩れと錦旗が掲げられたとの報を受けると、その日の夜、ひそかに大坂城を脱出して、海路江戸へ向かっている。容保もまた、慶喜の厳命で家臣たちを置き去りにして追従する。
 大坂城に残された将兵達にとっては、戦いの最中に総指揮官である主君が逃げちゃったということで、怒りがおさまらない。その怒りをおさめるための自刃らしい。
 会津目線では、慶喜の自らの安泰のためのしっぽ切りに伴う悲劇の最期に写る。しかし、正史とされる見方をもとにされる歴史マニアの方の中には別の見え方をする方もいらっしゃる。
 慶喜と幕臣の奇妙な判断に翻弄されるという会津びいきの見え方の前提を抜く見方だ。
 鳥羽伏見の戦いは、武力の整わない会津の無謀な挑戦と描かれ、神保修理の自刃は、会津の内部抗争を解消するために、会津の都合で勝手に自刃させたという見え方らしい。

 もう一つの死は、鳥羽伏見の戦いにおける八重の弟三郎の戦死。
 ドラマでは、大砲奉行の林権助と初陣を果たしたばかりの八重の弟三郎が、ここで敵弾に倒れたように描かれる。ただ、ここでは確かに両者とも重傷を負うのだが、林権助は大阪から江戸へ向かう船中で死亡し、三郎は江戸へ逃れた後、江戸の会津藩屋敷で1868年1月29日に死亡したという別情報もある。
 先に「よそ見編」で「旧会藩士戦死名簿」について整理したが、最近「福島県史料情報(第35号)」でその情報が広報されているのだが、その中でも「慶応4年(1868)1月5日、鳥羽・伏見の戦いに続く淀の戦闘において負傷したため船で江戸に送られ、芝にあった会津藩中屋敷で他界した」と解説される。
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-35.html
 この三郎の遺髪と着衣が江戸屋敷から会津の山本家に送り届けれられて、第22話「弟のかたき」に続く。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第21話「敗戦の責任」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_21.html
 「敗戦の責任」
 鳥羽伏見の戦いで会津藩が苦戦を強いられる一方、会津では八重(綾瀬はるか)が夫・神保修理(斎藤工)の無事を祈る雪(芦名星)を励ましていた。しかし、戦況は好転せず初陣を果たしたばかりの弟・三郎(工藤阿須加)が敵弾に倒れる。敗色濃厚とみた慶喜(小泉孝太郎)は、夜陰に乗じて容保(綾野剛)を供に密かに大坂から脱出、藩士たちも後を追って江戸へ退却した。会津は徳川とともに朝敵とされ、敗戦の責任は慶喜の江戸帰還を進言した修理一人が負うことになる。

by shingen1948 | 2013-06-06 06:51 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)