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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報⑦

 手軽に見聞きできる小泉八雲氏の悌次郎氏描写は、「東の国から」に収められた「九州の学生とともに」とのことだ。
 この人(秋月という老先生)の教えをうけた弟子のうちで、すでに鬼籍に入ったものも、幾人かはあるけれども、秋月氏はしかし、老後の孤独を感ずるようなことはすこしもなかった。自分の息のかかった教え子が、みな肉親の子とおなじように、師になつき、尊敬していたからである。そんなぐあいで、秋月氏はしだいに齢を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。
<中略>
 かりに諸君が、そんなら、ごくふつうに見られる伝統的な神のすがたというのは、どんなかっこうをしているかと訊くとしたら、わたくしは、こうそれに答えたい。それは、「長い、白いヒゲをたらして、白装束に白の束帯をしめ、ひじょうに柔和な顔をした、しじゅうにこにこわらっている、高齢の老人だ
 この前に、「みんなからひとしく尊敬されている人」で、その感化力は実に大きなものがあると、最大級の賞賛をする。そして、その感化力については、「若いころ、峻厳をもって鳴らした戦場の古強者が、年老いて温和怡然となったものほど、人の心をふかくひきつけるものはなかろう」という経歴とかかわるとするようだ。

 ハーン氏好きの方は、日本的な事を愛するハーンの志向に焦点を当てるようだが、それだけではなさそうだとも思う。
 ハーン氏は、明治23年(1890)松江中学で教べんをとっていたが、翌24年(1891)小泉セツさんと結婚し、その後熊本の五高に赴任するようなのだ。ただ、財政とのかかわりでその雇用契約は不安定だったらしいことも伺える。明治25年(1892)5月に最初の雇用継続の手続き時には、文部省側は五高存続問題で難色を示し、1年間の雇用継続の認可が下りるのは3ヵ月後の8月だったとの情報もある。
 そういった状況の中で、校長の嘉納治五郎氏や教授の秋月胤永氏らの好遇を受けたという。熊本の風土と純真素朴な五高の学生に親近感を抱いたという経緯や、この頃からハーン氏は、隣人達との交流が盛んになり、隣人を庭に招いて踊りを楽しんだりしたといわれているという情報をも重ねれば、もっと情緒的な受容的な暖かい雰囲気の人間関係が大きかったのではと勝手に思う。
 長男の一雄が誕生した時には、出産のお祝いに秋月胤永が梅花鉢と酒と祝歌の掛物を携えてやってくるという関係性が、ハーンの「九州の学生とともに」の見え方にも結び着いた描写とも。

 ハーンは、秋月氏の個人的な資質そのものを賞賛するのだが、その背景に、校長や秋月氏をはじめとする職員の関係性やその職員や生徒との関係性、更にはハーン氏との関係性もからまって、秋月氏への温かい見え方につながっているのではと勝手に思うのだ。
 多分、秋月氏側に立ってみれば、自己肯定感に満ちた生活だったのではないかな。

 この「東の国から」は、県立図書館でも所蔵するらしい。他に書簡の中で秋月氏は賞賛されるらしいが、こちらは県内では簡単に目にすることはできなさそうで、しかも英語。これって、自分にとってはすごいギャップ。
 無理にこれ以上の確認をするつもりはないのだが、ハーン氏に詳しい方々にとっては、秋月翁に似ているというのは最上級の褒め言葉に感じるらしいことを付け加えておきたい。
by shingen1948 | 2013-05-30 05:51 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)