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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~柴五郎邸跡位置情報修正

 先に、柴五郎氏の生家跡の位置情報の混乱について整理したが、「ある明治人の記録(石光真人編著)」で、これは転居に伴うものらしいものも確認できたので、修正したい。
 同書「故郷の山河」の項に、位置情報にかかわる以下の表現がある。
 
余は若松城(鶴ヶ城)下の郭内、当時家中と呼べる藩士の居住地三ノの丁の邸に生まれたるも、まもなく本二ノ丁に移れり。ここはのちに歩兵29連隊の営内となり、わが家族自刃せる部屋跡には土壇を築きて保存され、のちに余自身ここにヒマラヤ杉を植えて冥福を祈れり。
 会津戦争とのかかわりで柴氏の思いが深いのは、本二ノ丁の邸、つまり、29連隊兵営跡地の方ということらしい。これは、先に「また、同市のかつて兵営があったところに柴の生家跡をしめす石碑があるという情報別情報も」として、こちらは柴五郎氏が建てた「家族の慰霊碑」という性格のものだろうと推測できそうと整理した情報の方だ。

 再確認すると、戊辰戦争(会津戦争)の時、柴五郎氏は10歳で、祖母、母、姉妹ら5人は「非戦闘員の女の籠城(ろうじょう)は兵糧を浪費する」と自刃する。一方では「男子は生き延びて会津の汚名を天下にそそぐべし」と五郎少年を逃がす。
 その五郎少年が、会津戦争直後、この邸を訪れる描写をお借りする。
 10月も末となり、武士以外のもの若松に入るを許される。太一郎兄、留吉に命じて柴邸焼跡にい行かしめ殉難家族の遺骨を拾わしむ。留吉捕らわれるを恐れ、暮夜ひそかに焼跡に忍び入り、自刃せられたる居室とおぼしき箇所の灰燼を手にてさぐり、大いなる骨片のみ拾得し急ぎて去る。菩提所恵倫寺に持ち行く余裕なく、馬場口興徳寺境内にかくれ、他人の墓所に仮埋葬し、目印の木片を立て倉皇として帰りきたる。
 11月に入りて、余は農家の子の姿なれば安全なりと思い、忠女、さき女の両名にともなわれ、二ノ丁の旧邸焼跡にいたる。赤く焼けたル瓦礫のみにて庭木もほとんど見あたらず、火勢の強かりしことを思わしむ。余、焼跡に立ちて呆然たり。まわせば見回せば見渡すかぎり郭内の邸ことごとく灰燼瓦礫と化して目をさえぎるものなし。
(中略)
 「五郎さま、さあ、ご自身のお手にて皆さまのお骨をお拾いなされ」
 用意の箸を余の手に持たしめて遺骨の細片を拾いあつめ、紙袋におさむ。これ祖母、母、姉妹の変わりはてたる姿なりとは、いかにしても理解できざるも涙頬を伝いて落つ。「ある明治人の記録(石光真人編著)」より

by shingen1948 | 2013-05-26 05:40 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)