地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報⑤

 まだ確認はしていないが、悌次郎氏の在職中ただ1回の休講の美談は、余話として「 ある会津人のこと(司馬遼太郎)」という短編集の結びの一話としても紹介されるらしい。
 教壇に立った悌次郎は、少し時間が経ってから、「実は昨夜、文久三年以来三十年余の友達が訪ねてきて、そのために終夜、痛飲してしまった。それで、下調べができていなかったために、今日は授業を勘弁してもらいたい」といって詫び、丁寧に一礼すると教室を出て行ったという。
 講義内容を変更することも容易であろうが、下調べが出来なかったことを率直に詫びる姿が素晴らしい。「同床異夢の政敵だった高崎を相手に語るときのみ、往事を回顧して手放しに感傷的になりうるという微妙な何かがあったに相違ない。秋月はこのとき七十歳である」と結んでいるとか。

 30年ぶりの友人というのが、大河ドラマ「八重の桜」第9話「八月の動乱」にも登場した高崎正風氏だ。
 秋月氏と高崎氏は両藩のいわば外交官で、会津・薩摩同盟の当事者だ。ドラマでは、高崎氏が京都で警備に当たる秋月(北村有起哉)のもとへ薩摩から密使として送られて、倒幕をたくらむ長州を都から排除する企てに協力するよう求める様子が描かれていた。これが、会津が薩摩と組んで長州と長州系の公家を京都御所から追い落とす禁門の変へつながるわけで、秋月氏にとって、最も輝いていた時期だと思う。

 政敵でもあった高崎を相手に語り、往事を回顧して手放しに感傷的になりうるチャンスを得たのは、明治26年(1893)年1月、高崎正風氏が熊本第6師団長の北白川宮(能久親王)の宮家別当だったこととのかかわりで来熊した時らしい。情報では、高崎氏が訪ねてきたとも、悌次郎氏が藩主別業だった水前寺の臨流亭に招宴したともある。
 この時、秋月氏は69歳。人生の完結を感じるほどの充足感であったろうと想像できるのだ。ならば、その余韻の大きさで、例え講義内容を変更したとしても、容易に対応できる状態ではなかったはずだとも思えるのだが、どうだろう。それで、分かってもらえるはずはないのだが、率直に詫びることを通して、ちょっとでもその感慨が分かってほしいと願ったのではとも思うのだ。
 時代もその背景も違う若者に通じるはずもないのだが、結果には美談という形で落ち着いて伝わったとも思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2013-05-24 05:30 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)