地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報④

 教育勅語の主語にこだわれば、鶴ヶ城籠城戦を中心として戦わざるをえなかった対象の長であり、特赦で赦免されるものの終身禁錮とされ、現状はその新政府へ従うという状況下ということになる。
 「勅語演説」の情報は、その状況の自己肯定と読み取れるわけだが、手に入れた職務保持のためというふうにも考えられなくもない。
 しかし、氏は、授業以外でも暇な時には常に数名の生徒を自宅に招いたり、努めて土地の史蹟を訪ねたりしているらしいのだが、その中に次のような明治26年4月菊池方面へ旅行した際のエピソードも目にするのだ。
 菊池川の畔で、菊池勤皇の事蹟を鮮やかに説き、木剣を持って立ち上がり、自ら吟じ自ら舞って見せたとか。その時の詩は、「北越潜行之詩」とのことで、自らの体験と重ねていたらしい。
 その菊池勤皇の事蹟について、近代デジタルライブラリー「勤皇菊池一族【講談社(菊池寛著)】」で確認すれば、その状況の自己肯定との読み取りは、間違いなさそうだということが分かる。
 「関連資料展と散歩情報②」で整理した事の再掲になるが、悌次郎氏にとっては、この教育勅語に内在する「儒教」精神で、自らの会津藩士としての熾烈な過去が浄化され、それを語ることで聞く人に感動を与えたという側面があったのではないかと思われる。
 鶴ヶ城籠城戦を戦わざるをえなかった状況は、教育勅語に内在する儒教精神によって、悔恨ではなく誇りになり、終身禁錮や恩赦は勿論のこと、新政府へ従う行為さえも浄化され、それが熱く語られた時、聞く者には感動となって響く事になったと。

 五高記念会館「秋月胤永先生肖像」の解説によれば、熊本に着任した時は既に67歳であったとか。以下の解説が続く。
 倫理、国語、漢文を講じ人格高潔、学徳兼備で生徒からも敬慕された。特に英語教師として共に教鞭をとったラフカディオ・ハーンは「先生は慈父のようである」と云い最も敬愛した一人である。
 老齢のため本学を去られた明治28年(1895年)の職員、生徒に宛てた書簡には老教授の謙虚な人柄がそこはかとなく偲ばれ、在職中の想い出が綴られている。
 悌次郎氏は、教育勅語とかかわる「勅語演説」によって自らの人生を自己肯定するチャンスを与えられたという側面がありそうだ。ならば、在職中ただ1回の休講の美談についても、この自己肯定にかかわる側面考察があってもよさそうに思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2013-05-22 06:45 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)