大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報③
2013年 05月 21日
しかし、これには自分でも違和感があって、すっきりしない。
その違和感に視点をあてて整理しておく。
悌次郎氏がこの五高に受け入れられた要素の一つに、「勅語演説」があるのではないかと思う。
式日には、校長が教育勅語を奉読されたらしいが、五高では、この奉読後に「勅語演説」を行うことを例としたということだ。五高関係の資料からは、悌次郎氏への賞賛は、氏の「勅語演説」とのかかわりが大きいように読み取れるのだ。
まずは、「教育勅語」と五高のかかわりを「五高五十年史」で確認する。
因みに、熊本縣に在りては、二十四年一月六日、各郡市長各縣立學校長等を廃内に召集して、勅語謄本の交付式を行った。これに続く以下の文から、この「謄本の奉讃及び演説を爲し」の「謄本の奉讃」が校長で、「演説を爲し」たのが、悌次郎氏らしいことが想像される。
然るに、本校に對して、畏くも明治天皇が、御名御辰署の勅語を賜はったと云ふことは、當時の高等中學校が、如何に世に重んぜられていたかが解るであらう。乃ち、明治二十四年一月二十二日、平山校長か、恭しく奉持して帰任するや、校を挙げて恐擢欣躍し、奉戴式挙行の後は、大正六年五月、奉安所竣成まで、本館階上玄関上の一室に奉置し、二十四年の天長節には、午前九時、一同本館前に整列、校長教授の外は、二名乃至三名宛、御眞影と勅語とを拝したる後、雨天体操場に於て、謄本の奉讃及び演説を爲し、天長節の歌を齊唱し、式後、一同寄宿舎食堂に於て、祇酒を供せられている。
秋月教授は、その後も各地に演説を頼まれて、国体の本義、忠君愛国、国民道徳等を闡明(※せんめいー明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること)したのであるが、二十四年十月には勅語演説を乙夜の覧に供し奉り、二十八年五月退職の直前には、本校に於て之が印行を爲したのである。而してその内容は、當時の龍南會雑誌にも連載されている。資料としては、この「印行を爲した」演説の内容も確認できるのだが、その枕が、「臣 秋月胤永」であり、その〆が、「第五高等中学校教授 正7位 秋月胤永」である。
確認していくと、少なくとも五高の歴史と秋月のかかわりを整理される中に、直接的に「敗北を知る士族たちの精神」とのかかわりを感じることはできない。