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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報③

 「関連資料展と散歩情報③」で、「ある明治人の記録(石光真人編著)」【中公新書】の作者と秋月悌次郎氏が受け入れられた地の共通項から、生き方に心の琴線に共鳴する感性と柔軟な視野が育まれている土壌を想定して整理した。
 しかし、これには自分でも違和感があって、すっきりしない。

 その違和感に視点をあてて整理しておく。
 悌次郎氏がこの五高に受け入れられた要素の一つに、「勅語演説」があるのではないかと思う。
 式日には、校長が教育勅語を奉読されたらしいが、五高では、この奉読後に「勅語演説」を行うことを例としたということだ。五高関係の資料からは、悌次郎氏への賞賛は、氏の「勅語演説」とのかかわりが大きいように読み取れるのだ。
 まずは、「教育勅語」と五高のかかわりを「五高五十年史」で確認する。
 因みに、熊本縣に在りては、二十四年一月六日、各郡市長各縣立學校長等を廃内に召集して、勅語謄本の交付式を行った。
 然るに、本校に對して、畏くも明治天皇が、御名御辰署の勅語を賜はったと云ふことは、當時の高等中學校が、如何に世に重んぜられていたかが解るであらう。乃ち、明治二十四年一月二十二日、平山校長か、恭しく奉持して帰任するや、校を挙げて恐擢欣躍し、奉戴式挙行の後は、大正六年五月、奉安所竣成まで、本館階上玄関上の一室に奉置し、二十四年の天長節には、午前九時、一同本館前に整列、校長教授の外は、二名乃至三名宛、御眞影と勅語とを拝したる後、雨天体操場に於て、謄本の奉讃及び演説を爲し、天長節の歌を齊唱し、式後、一同寄宿舎食堂に於て、祇酒を供せられている。
 これに続く以下の文から、この「謄本の奉讃及び演説を爲し」の「謄本の奉讃」が校長で、「演説を爲し」たのが、悌次郎氏らしいことが想像される。
 秋月教授は、その後も各地に演説を頼まれて、国体の本義、忠君愛国、国民道徳等を闡明(※せんめいー明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること)したのであるが、二十四年十月には勅語演説を乙夜の覧に供し奉り、二十八年五月退職の直前には、本校に於て之が印行を爲したのである。而してその内容は、當時の龍南會雑誌にも連載されている。
 資料としては、この「印行を爲した」演説の内容も確認できるのだが、その枕が、「臣 秋月胤永」であり、その〆が、「第五高等中学校教授 正7位 秋月胤永」である。
 確認していくと、少なくとも五高の歴史と秋月のかかわりを整理される中に、直接的に「敗北を知る士族たちの精神」とのかかわりを感じることはできない。
by shingen1948 | 2013-05-21 07:13 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)