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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編~八重講演のニュース続き

 

 先に、大河ドラマ視聴「八重の桜」~第7話「将軍の首」②の中で、「八重が岡山に来ていた」報道についてふれ、3人の白虎隊士に砲術を教えたらしいことにもふれた
 http://kazenoshin.exblog.jp/17347495/
 この時に、ドラマでは伊東悌次郎が、年齢が一歳足りずに悔しがって八重に砲術を習いに来ていたらしいことにはふれないだろうとしたが、そこは訂正かな。
 八重さんの会津での様子はよく分かっていないらしいという状況なら、使われて当然かな。悌次郎に教えたエピソード中、射撃の動作を速くするため悌次郎の前髪を切ったことと、雷管の音で眼を閉じる悌次郎に指導したエピソードを分けて、雷管の音で眼を閉じるエピソードを二本松少年隊の姿としてつかって二つの場面に引き延ばし、「機(はた)を織りながら」ということではなく真剣そのものの指導にしたドラマ展開は、自然な構成になっていたように感じられた。

 今回整理したいのはそちらではなく、八重さんの講演の記録そのもの。
 その内容を伝える新聞報道に会報の写真が載っていたのだ。ここは習性のようなもので、そこに書いてある事を確かめないと気が済まない。おおよそ、以下のように読み取っていた。
 第42号
 山陽高等女学校行餘會
 白虎隊
 故新島襄先生婦人談

 20世紀の女子の諸嬢に、天保時代の私がお話することが出来ますのは、誠に幸福なことと思います。今日は丁度招魂祭であります故、白虎隊のことにつきましてすこしく申し上げます。
諸嬢もご存じの明治3年○9月11日は、白虎隊奮闘の日であります。白虎隊は15.16歳の子供で、素より士族の子弟であります。そのうちには、私が鉄砲のうち方を教へたものが3人もあります。そして、白虎隊が最も奮戦いたしましたのは、16橋といふ
一方山道に沿へる要害堅固の場所で、白虎隊はこの橋をこわしてここを固守しましたので、官軍はそれがために、さと山の方からまはりました。白虎隊も遂にこの場を引き上げて、其の1小部隊の16人は、官軍と共に滝澤峠に進みましたが、丁度夜分で官軍と同じ道を進んでいるとは夢にも知りませぬ。夜が明けて見ると、右の肩に錦のきれをつけていた官軍が見えたのです。白虎隊の人々は驚いたが、官軍は、
 「官軍は、」の後は合言葉を交わして撃たれる話とのかかわるのかなと思うが、情報はここまでだ。それでも、以下の八重さんの認識が読み取れる。
 ① 十六橋死守に白虎隊がかかわったという認識
 ② 其の1小部隊の16人は、飯盛山で自害した小隊であること
 ③ 夜が明けて見ると、右の肩に錦のきれをつけていた官軍が見えたエピソードの認識

 最近、新島八重の講演録の全文が公開されたことを知った。その後の紹介文の確認をする。そこで何が分かるということではなく、確認しないと気が済まないという習性の確認かな。
 (官軍は、)子供の事とて毫(すこし)も気が付かなかったのです。
滝澤峠から会津の城下は目の前に見えます。飯盛山に入る道は甚だ細い間道を通って行かねばならぬので官軍は大道路を通りましたのです。十六人の白虎隊は飯盛山に上って、直に入城しようと暫く休憩した場所は墓地で、そこから若松城がよく見えます。 
 城中では、米倉と城とが接近して居ますから、これに火をかけて米倉を焼きました。けれども其の焔が非常の勢で、丁度城に火をかけた様に思はれましたので、十六人の白虎隊は非常に落膽して萬事休矣で力抜けがしました。
 遺憾な事には年長者がいないので、誰も指揮するものがありません。相談遂に一決して、雑兵の手にかかり梟首せらるるよりも潔く自殺する方がよいと、堅健気にも腹をさしちがへ、或は咽喉をさし貫き、枕をならべて逝きました。
 その時は午前の七時頃で、附近の百姓老夫婦が、避難する途中この場所を通りましたが、白虎隊の中の一人、咽喉をつきそこねて非常に苦しくなったものと見えて、水を飲んでいました。百姓夫婦はこれを見て驚いて介抱しようとすると、早く殺してくれと、口にはいへないが、そぶりにあらはれています。百姓夫婦はその不心得をさとし、鬢付油を疵口につけて繃帯し肩にのせて一民家に逃れ、いろいろ介抱しましたが、水も粥も疵口から吹き出まして、何の効能もありません。天の助けでせうか七日目には、疵も大分癒え、遂に全快の幸となりました。白虎隊の行動は、皆この人によりて知れ渡ったのです。
 十六歳の少年が、かくも美事なる最後をとげたかと申せば、維新前の母親は、たしかにしかとしたる精神をもって、子弟に忠孝の道を敎へたからであります。人の母でも子でも、我會津藩ではすべて童兒訓といふ本の序文によりて敎育せられました。それによって君につかへ、親につかふる道を知らせていました。當時の人は皆その序文を諳誦して實行させられました。母たるものはわが子に常に之を敎へ、之を素読せしめた。
 私は六歳の時に其の全文を覚えました。それ故にかの十五六歳の少年でも、国君あることを忘れぬのであります。
 女子は男子と異りて意思が弱い、それが女子の缺點であります。女子は国の栄の基礎となるものです。故に意思を強く忍耐力心に富んでいなければならぬ。堅い決心をもって學びの道を辿られんことを希望いたします。山陽高等女学校の出身者には、その様な方はありますまいが、世の誘惑は恐しいものです。白虎隊の人は母に分れ、又兄弟に分れて唯一人出陣しましたのも、皆童兒訓の序文によつて養成せられた結果であらうと思ひます。
 何でも決心は幼い時からの事であります。故に文明時代の母となり姉となって、国家の義務を知らなければ、多くの人の身にかかることもありますから、多年此学校にお学びになった事が、社会に有益な事をなす基となる様に学ばれんことを望みます。

 http://www.sanyogakuen.net/arc/bunsyo.html 
by shingen1948 | 2013-05-20 06:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)