地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第18話 「尚之助との旅」

 今話の会津では、二人は二本松に立ち寄って、そこで熱心に砲術教練に励む少年隊士たちに出会うということで、二本松藩砲術師範木村貫治氏の長男である木村銃太郎氏の門弟達に焦点があたる。
 木村銃太郎氏の経歴を確認すると、弘化4年(1847)、木村貫治の長男として生まれる。
 砲術は、父について学んでいたが、慶応元年(1865年)18歳の時に藩命を受け、西洋砲術を修めるため、江戸へ遊学する。西洋学問所「江川塾」で西洋流砲術を学んだとか。
 当時の江川塾は、大鳥圭介塾頭、塾生はいずれも各藩から抜擢された秀才で、多い時には50名位あったとか。幕末の近代西洋流砲術は、ここを中心に盛んになったもので、時代の先端を行く兵学者や兵器改良者は、みなここから輩出しているという。

 ドラマとの関連では、文久3年(1863)に薩摩藩から選抜された9名も、この西洋学問所「江川塾」で西洋流砲術を学ぶのだが、ここに京の話で登場した大山巌氏も入っている。
 この大山巌氏が、江川塾から免許を受けて京都に向かうのは元治元年(1864)8月とのことらしいので、これが木村銃太郎氏入門の前年の話かな。
 銃太郎氏は、慶応3年(1867年)に帰藩して、父貫治の砲術道場で指導に当たるらしいので、ドラマはこの頃の話としての設定だと思う。
 この頃、二本松藩でも藩士は皆、砲術を習うように藩からの命令が下っていたという。銃太郎の担当は、まだ砲術道場に通えない幼い少年の指導だったということのようだ。
 徹底した個別指導で、時には厳しく、時には子供達と一緒になって考える先生で、少年達から「若先生」と呼ばれ絶大な信頼を得ていたという。また、身長170cmの大柄で「眉目秀麗」の美丈夫といわれ笑うとえくぼの出る凛々しい青年であったとか。
 結構具体的に表現されるのは、実際の門下生の証言に基づくらしい。

 ドラマの京の話では、岩倉村では薩摩の大久保氏と岩倉氏が、密かに徳川の世を覆す企てを進めていたとのこと。これを「よそ見編」の関連資料展開催の福島県歴史資料館につなげれば、福島県資料情報創刊号「福島県設置の文書」で、小堺氏ではなくて、岩倉氏の御出世ぶりがよく分かる。
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/ichigo.html#福島県設置の文書
 明治9年(1876)8月21日に明治政府は府県統廃合を断行する。これによって、福島・若松・磐前3県が1県となって、ほぼ現行の本県域が確定するらしい。
 その福島県への通達に注目すれば、これが、明治政府最高官の右大臣岩倉具視からなされている。その通達が資料情報創刊号には写真で紹介される。
 資料としては、明治九年『官省達』(F141)に綴られる文書で、その内容は若松・磐前県を廃止し、福島県は両県の土地と人民を引受けるように命じられているとか。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第18話「尚之助との旅」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_18.html
 「尚之助との旅」
 会津の防衛に不安を抱いた尚之助(長谷川博己)は、八重(綾瀬はるか)を連れだって周縁の地域の見聞に回る。二本松に立ち寄った2人は、そこで熱心に砲術教練に励む少年隊士たちに出会う。二本松藩では変事に備え、藩士はみな鉄砲を学ぶようにとの通達が出されていたのだ。会津に戻ると、尚之助に藩から仕官の認可が下り、八重も権八(松重豊)や佐久(風吹ジュン)と喜び合う。尚之助は早速、周縁地域の見聞録や軍備増強策を提出し藩からも評価される。しかし、守護職就任以来かさみ続ける出費により、もはや藩には尚之助の献策を実現させる余力はなかった。

by shingen1948 | 2013-05-11 06:57 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)