地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳ~「八重の桜」の講演会②

 講演会で話をお聞ききする時には、後で念頭再生できるまで聞きとろうとするのが習性だ。話を聞いている時点では、聞き取りに専念している。自分の思いと照らし合わせるのは、念頭で再生する時点だ。

 今回ドラマの特色の一つは、今まであまり視点の当てられることがなかった人物にスポットライトが当てられたということがあるだろうか。それが、八重ということであり、その八重に強い影響を及ぼした覚馬にもスポットライトが当てられるということだろうか。
 ここにスポットライトを当てるのには、定番の幕末の正史である薩長史観で描かれる中心人物とのからみを丁寧に描くという方策がとられたということなのだろう。
 これがドラマの本筋とかかわる部分だが、その中心人物をしっかり浮き上がらせるのには、その脇を固める方もまた、今まで意識されなかった方々ということになるわけで、例えば、今まで曖昧なままでも支障のなかった川崎尚之助のような方の人物像もはっきりさせたいという思いもにつながったということなのだろうか。
 
 そういう方がもう一人いらっしゃる。講演の中でもふれられたが、山本覚馬の最初の妻となった樋口うらさんだ。
 川崎尚之助氏の山本家や会津藩とのかかわりや経歴が明らかになって行く経緯を確認してみると、出稼ぎ先とされる山形では、八重親子と共に川崎尚之助・覚馬の妻子の名もあるとのこと。
 ドラマではこれからだが、八重の弟は慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いに参戦して、淀で西軍の銃撃を受け負傷し、紀州から海路で江戸の藩邸へ逃れた後で、この傷がもとで死去している。その会津へ届けられ遺髪と形見の袴が送られ、その袴をはいて籠城戦に臨んだという八重の雄姿とつながるのだろう。また、父権八は、その会津戦争で50歳以上の藩士で編成される玄武士中隊に所属して奮戦し、一ノ堰の戦いで戦死している。
 これが、戦後、山本一家が米代藩の内藤新一郎方に身を寄せた時点での状況だ。
 
 この時代の会津では、男が核となる家族構成のはず。したがって、この時点での山本家は、川崎尚之助氏を中心としだ家族が構成されていたと推定される。
 その状況下で、明治4年(1871)に山形内藤家で覚馬の生存が分かるということだ。
 それにかかわる移動関係が、母親佐久・八重・覚馬の子みねが京へ、川崎尚之助・覚馬の妻うらが斗南藩へ向かうということだ。
 この事を家という視点で見つめ直す。
 山本家では、家族の核を覚馬と確定し、八重は夫を選ばずに山本家に戻る事を選択したということかな。
 覚馬の妻うらについても同じ事がいえて、夫覚馬を選ばずに、実家樋口家に戻る事を選択しているということになるのだろうか。ただ、うらの場合、その選択には、我が子と分かれるという状況が伴う。これが、血縁の考え方とのかかわりかな。
 川崎尚之助氏の場合も、その後一人身で斗南藩だが、死後は実家川崎家に戻っているようだ。

 分かっていることが、ここまでとすると、知りたいのはその後のうらさんだが、その情報はないらしい。
 手がかりとして、その実家を確認しようとすると、会津藩勘定方・樋口家としか分からない。会津藩には樋口氏は何家かあるが、風習とからませればその家格が同格の四等上士クラス附近かな、それなら、御近所にも、……。
 このドラマがきっかけで、うらさんの樋口家の家系の方が、自分探しをして結びついいて、斗南藩へ去った時の心情にかかわる事実が分かったなんていう、それこそドラマを期待したいなぁ。
by shingen1948 | 2013-05-07 06:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)