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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳ~「八重の桜」の講演会

a0087378_4545197.jpg 大河ドラマ視聴「八重の桜」~第17話 「長崎からの贈り物」で、「八重の桜」の講演会に出かけたことについてふれた。ここでは、元会津若松市図書館長で、市史編纂に携わっていた講師の野口信一氏が、今回のドラマをどんな風にみているのかという興味を視点に整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/17728704/ 
 野口信一氏にふれながら整理した事がもう一度ある。
 大河ドラマ視聴「八重の桜」~第12話「蛤御門の戦い」で、昨年、八重家族が戊辰戦争後に一時山形県米沢市に滞在していたことが明かになった事についてふれた。 
 このきっかけが、野口さんの調査とのことだった。彼が、明治4年の旧北会津郡役所「各府県出稼戸籍簿」に、山本家が2筆に分かれて記載されているのを見つけたことが、そのスタートだったはず。この書類は、昭和元年に、若松市役所を経て会津図書館に移管された資料だとか。それを元会津図書館長だった野口氏がみつけ確認したとのことだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/17522660/
 以下のように、山本家が2筆に分かれて記載されているのを見つけたとのことだった。
 「山本権八妻、娵、孫娘、伯母」の4人分で、それぞれ辛未(明治4年)時点での年齢が記されるとか。
 娵(嫁)は覚馬の妻うら、孫娘は覚馬の娘みねである。そして、もう一家が、「川崎尚之助妻 辛未二七」で、これが川崎尚之助妻=八重だ。この二家が「羽前国米沢県管内・城下・内藤新一郎方出稼」と記されていたということだった。なお、この時点で、八重の初夫川崎尚之助が会津藩士であったことを証明する文書は見つかっているようだということだった。その資料が、「御近習分限帳」という慶応年間に書かれた会津藩士の石高や役職を記したものらしい。
 ここから結婚を機に会津藩士になれたということなのだろうと推定するらしい。このことは、戊辰戦争後の八重との離婚理由が、川崎尚之助が会津藩士でなかったからという通説が覆るということでもあるらしかった。
 その後の米沢の調査で、戦後も山本一家は離れることなく米代藩の内藤新一郎方で働いていたことが分かり、明治4年(1871)覚馬の生存がわかり八重たちが京へ去って、尚之助が斗南藩に移ったとか。

 尚之助氏のその後だが、外国米と藩領で収穫予定の大豆交換という調達方法の行き詰まりで、外国商人からの訴訟に関わったことで、東京での晩年情報もあるらしい。
 更に別の調査ルートで、出石藩士たちの名簿「御侍帳」から川崎家の存在にたどり着いたあさくら氏が、その菩提寺願成寺「墓籍台帳」を手がかりに、尚之助の没年月日と全く一致する刻文をもつ墓石を確認し、尚之助の戒名「川光院清嵜静友居士」が確認できたということとつながるらしい。
 散策を楽しむ者としては、そういう経緯も楽しみの一つだが、今回の講演会では、テーマが~八重の生き方に学ぶ~という事なので、その事については特にふれられなかった。
by shingen1948 | 2013-05-06 05:30 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)