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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く22~古代道のイメージ②

 旧道諸説とのかかわりで、この付近はどう見えるのかを確認したかった。「季刊地理学」の「福島市(金谷川~東湯野)の古代道(鈴木貞夫)」が、それにふれているらしいのだが、この冊子そのものの確認はできなかった。
 ただ、その概要についての解説文を目にする事ができたので、とりあえずそこから読み取れることを確認しておく。なお、信夫山とかかわる部分では東周りで越して、東湯野村も通過するというのが、信達盆地の基本的な通り方という見方らしい。
 解説文では、福島側から伊達側の順に解説される。その福島から信夫山にかけては次のように解説される。
 荒川を渡ると福島の城下町になる。直進すると信夫山になるので、 北東に向きを変える。古代には阿武隈川は右岸の渡利小学校が流路で、 福島の大仏城(現県庁)本丸が半分に浸食されている。従って, 道の大半は阿武隈川の河床を陸路で通過して、 上浜町まで来る。県立福島東高から1km北に、 上・ 東・ 南・ 西・ 北の宿のつく字名が並ぶ腰浜を直線で通過する。小山荒井村の字道通で信夫山を避けるために北東に200m進み、 旧五十辺村を条里西端の信夫山の東麓を600mほど北進する。東麓の字名に立石がある。
 そして、台畑(南矢野目)の東側の周辺とかかわる部分が、次のような解説になる。「東麓の字名に立石がある」という部分を重ねる。
 東麓の字名に立石がある。松川から摺上川までの6kmは洪積段丘と沖積面が非連続で存在する。従って、 条里は存在するが連続はしない。条里の余剰帯の調査もしたが、 単位が小さいために確認は出来なかつたので、 直線の連続を問題とした。その結果五十辺から連続して、 本内村では館の西側に凹んだ道型があり、 鎌田の条里の線、 石森山の東からは字の境界はないが住宅地にも直線の道型が連続して、 日枝神社の境内には「笠卒塔婆」まである。その北の字孫六橋から摺上川までも道型が直線で連続する。
 この中の「東麓の字名に立石がある」から「本内村では館の西側に凹んだ道型があり、 鎌田の条里の線、 石森山の東からは字の境界はないが住宅地にも直線の道型が連続して」というあたりが、散策中の台畑(南矢野目)の東側の周辺とかかわる部分だ。
 実際に、館の西側に凹んだ道型を素人目には確認出来ない。ただ、「石森山の東」→「鎌田の条里」→「本内舘の西」→「信夫山東の立石」を地図上で眺めれば、旧奥州街道の直線部分を延長した鎌田の条里は鎌田小学校の校庭西端が本内舘の西を通り、信夫山東の立石の稜線近くと重なるような気がするといった程度だ。
 なお、以下のようにこの後の道筋は、東湯野を経由していく道筋として紹介される。
 日枝神社の境内には「笠卒塔婆」まである。その北の字孫六橋から摺上川までも道型が直線で連続する。東湯野村では川の左岸には字馬場, 馬洗, 馬繋があり, 条里水田の字名に東山道の駅名の「琴越」があり, 北東に曲がる村境には字山道がある。この北の西原には鹿島神社が在る。平田の発掘調査が必要である。
 伊達国見の信達平野を抜ける側から見える道筋と、金谷川の信達平野への入り口側から見える道筋での折り合いをどうつけるかという事かな。
by shingen1948 | 2013-05-02 05:44 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)