地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑰~大地鎮神社

 台畑台地東側の田園風景と信夫山とつながりのイメージがある道筋に、大地鎮神社が鎮座する。その創建にかかる部分は、案内板説明では以下のように解説される。
a0087378_837663.jpg 言い伝えによると、その昔松川が乱流して将に社地を衝かんとする時、表前の田間より霧起ち昇るのを見た人が甚だ怪しみ其の田を穿ちて奇石を得た。村人大いに是を崇め敬っていたが、近郷を始め領主の臣下に至るまで尊敬するようになった。
 「その昔松川が乱流して将に社地を衝かんとする時」にここを守った「奇石」と読み取れば、その目的は「松川の暴れの鎮め」る神社ということであり、鎮神社の一つと読み取れる。
a0087378_8412852.jpg 
 そして、その御神体が「奇石」ということであり、その御神体「奇石」を得た地がこちらだと案内される。

 鳥居前の社号標柱には、「村社大地主神社」とあって、その呼称が微妙に違うのだが、案内板の説明と照らし合わせると、この呼称は昭和27年までとのこと。昭和27年というのは、明治維新から第ニ次世界大戦までの政府の政策によって成立していた国家宗教とかかわる背景が取り除かれた時期だと考え、国家宗教に組み入れられる時の混乱部分の読み取りを考慮すれば、「大地主神社」というよりは大地「鎮神社」が、この神社の本来の形に近いとみてよいのだと思うが、どうだろうか。
a0087378_8505087.jpg 案内板にいう御祭神は大地主神とのこと。
 ストレートにその土地固有の自然環境や自然特性そのものを神格化したこの地の神を、そのまま畏敬して祀り、この地に住む人々の守り神となってもらったものとみたい。具体的には、暴れ川である松川の鎮めを中心に、この地の疫病の鎮め、更には怨霊鎮めまで受け負っているのかなと勝手に想像する。
 また、「村社」の冠と共に神社を行政村1つにつき1つだけに整理する神社合祀によって、土着の信仰が国家神道に組み込まれる影響を強く受けた神社とも読める。

 説明の中で気になるのは、正式には宝暦5年(1755)に大覚寺を守護する地主神として創建したことになった経緯が記される部分。
 この地を守護する神の本来が矮小化されていると主張したいようにもみえる。ただ、中世には、神社、寺院の建立の際に、その土地古来の神を地主神としたり、鎮守社を新設したりして地主神とすることもあったらしので、その延長の出来事とも読める。
 それよりも、皇統譜につながる神々に変更されることを要求される時代背景の中、地域伝承で古来の祭神に近い神々が受け継がれてきていると見るべきなのではないかなと勝手に思う。

 なお、元々の神が地主神だとするならば、ここの地が開発されるに際して、この地古来の神に許可を得るためや封じ込めるために祀られたということなのか、産土神、氏神、鎮守等々の他の系列から派生した事なのかと思ったりもするが、多分その事は分からない事なのだろうと思う。

 <※ 2013/5/2付加>
 案内では、宝暦5年(1755)に大覚院を守護する地主神として創建したことになった経緯が記されるが、その大覚院は信夫山修験のイメージと重なるらしい。「歴史地図」の「東地区の歴史上の人物」の項で、「大地鎮神社(地鎮社)」の北に、「大覚院」がプロットされ、そこに以下のメモが記されるのを見つけた。
 阿部清光
 信夫山の修験
 三條院の後裔
 三條院や大開を開拓後、慶安2年(1649)に愛宕社の傍らに大覚院を創設
 「三條院」は、先に確認したが、「大開」は松川の手前の地域だが、ここと信夫山修験とのかかわりはまだ確認していない。
by shingen1948 | 2013-04-25 08:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)