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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑯~台地の東に豊かな田園風景をイメージする③

a0087378_9101357.jpg 台畑の台地からその東側の耕地にあたる低地に向かう道筋が、丸子条理遺跡を挟みこむように左右に回り込む道筋になる。その分かれる部分の道筋は、複雑に交差し合う道筋によって切り取られた道筋のようにも思えるのだ。
 歴史地図にあった熊野道とあった道筋をたどったことがあるのだが、この道筋は開発によって消える。それで、その道筋をイメージしながらたどるのだが、そうするとこの道筋が重なったように感じることがあったのだ。勝手な思いでしかないのだが、この道筋はその南側の神社を通って信夫山の方に向かう。
 熊野道かどうかということではなく、この信夫山とつながるというイメージが自分にとっては大切な感覚なのだ。
 というのは、台畑(南矢野目)周辺を歩いていると、信夫山の西側から北にかけて歴史環境の空白地帯のようなものを感じているのだ。具体的には、東西に延びる台畑の台地から奈良平安時代の遺構とされる御山千軒遺跡までの間の地帯だ。
 御山千軒遺跡の北側は、湿地帯だったとのことだった。そこから台畑の台地の南端に当たる冨塚前遺跡辺りまでだ。冨塚前遺跡の古墳時代のムラは、「竪穴住居はすべて川砂に覆われて埋まっており、当時は洪水の被害が大きかったことをうかがわせます」とのことだった。「当時流れていた小川の跡から、多数のつぶれた土器(甕や杯)がまとまって見つかりました。まつりや、おまじないをした跡かもしれません」ともある。ここから南側の空間だ。この事は、多分、報告書等では語られる事はないだろうと思う。実際に散策した者だけはここから山千軒遺跡の北側までの間が空白を感じるのだろうと思う。
 それに対して、台畑の台地の東側には信夫山とつながっているというイメージがあるということだ。

 さて、先に石名田遺跡の報告書についてふれたが、これは2001に試堀された情報だ。ここでは、本格的な調査歴は無い。それで、正式な遺跡分布情報としては調査歴無しとされる。その中で、遺構としては弥生時代と平安時代の水田や溝が検出されたとし、遺物としては、縄文土器、弥生土器、ロクロ不使用土師器、須恵器、打製石器、石器、陶磁器が発掘されたとすることを記した。この事は、散策の中で、弥生時代に視点を当てた痕跡は少ないなという見え方とかかわれば、字石名田には、弥生式土器・打製石器が出土する水田の層や弥生時代の水田層の存在跡があるという観点とそこが奈良~平安の遺跡が重なっているという事からは、新たな時代の痕跡が重なる事によってその痕跡が消えたという経緯なのかなというイメージとなる。
 なお、小学校の校庭の西端が字「下六反田」に入るらしく、この地点を丸子条理遺跡ではなく、下六反田遺跡として調査された事があるらしく、正式な遺跡分布情報で調査歴有とするが、縄文土器出土した以外明かになったものは不明とする情報がある。
by shingen1948 | 2013-04-24 09:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)