地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑭~小森舘~鎌田舘

 小森舘前の道筋の先というか、耳取川筋先というか、そちらに鎌田舘がある。
 ここは、2009年2月に「鎌田城」として整理している。土塁が残り、舘跡のイメージがしやすいところだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7989181/
a0087378_603348.jpg この鎌田舘には、農面道路を下ってくるか、福島方面から街道筋を通ってくる事が多い。それで、今回のこちら側から近づくのは初めてで、その見え方も違っている。そのせいか、今回、鎌田公民館に鎌田舘跡の石碑が建っているのに気づいた。現地にたどり着くと、大概ぐるりと回ってみるのだが、その時に気づいていない。新たな見え方の成果かな。
 先の散策で知ったのは、耳取川筋は、舘の南から東にかけて流れていたものを、付け替えたとのこと。それなら、耳取川筋は、この公民館前辺りを東に流れていたのかな。

 この鎌田氏は、戦国時代には伊達氏の家臣となっていて、天文の乱では、嫡流の鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄の庶流の鎌田与総衛門が晴宗について加恩され、名取郡の鎌田助六は稙宗について失脚したという事だった。
 ここ鎌田氏の子息は、天正18年(1590)伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を後にしたとか。

 冨塚舘の冨塚氏は、天文の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収され、冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されている。その領地は、晴宗方だった大塚将監に与えられたとか。
 天文の乱で、どちら方についたかで、大きく運命が変わったという話らしい。
a0087378_622639.jpg
 鎌田舘跡の石碑が建つ公民館前の道筋を進むと、街道筋との交点に、鎌田村の道路元標が建つ。

 なお、この鎌田舘の跡には、鎌秀院が建つのだが、その墓地には、寛延農民一揆の寛延の三義民といわれる猪俣源七氏の墓が建つ。このことについては、先に「寛延農民一揆~寛延三義民猪俣源七」として、整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8055428/
by shingen1948 | 2013-04-18 06:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)