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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑪~富塚舘②

 富塚舘にかかわって、「日本地名辞典」の「富塚(中世)」の項に次の解説がみえ、ここにも、「富塚館」という館らしきものがあるとされる。
  
戦国期に見える地名信夫【しのぶ】荘のうち天文段銭古帳に「しのふ北郷」のうちとして「一,五〆五百文 とミつか」と見え、5貫500文の段銭がかけられていることがわかる(伊達家文書/県史7)また「采地下賜録」によれば「富塚在家」が見え、 大塚将監の知行となっている(伊達家文書/山形県史資料篇15上)中通り北部、現在の福島市丸子字富塚前に比定される。
 「福島市の中世城舘」の城舘一覧では、「富塚館」の備考に冨塚右門(一統志)としているのが、館主と思われる。
 「歴史地図」では、「富塚館」のプロットに、「伊達の家臣冨塚中網?天文の乱1542~で戦死」がメモされる。
 「ふくしまの歴史」では、「富塚」について、次のように解説される。
 この村を本領として発展した冨塚氏は、伊達家の有力な家臣でしたが、天門の乱で稙宗方となったため乱後は一族はほとんど領地を没収されました。冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されて、晴宗方だった大塚将監に与えられました。冨塚氏は、その後復活しました。最近、室町後期の屋敷跡と中国製磁器碗などが発掘されました。冨塚氏などに関係する者と注目されます。
 この「最近、室町後期の屋敷跡と中国製磁器碗などが発掘されました。」という部分だが、「ふくしまの歴史」では、中心的に古墳時代のムラの遺構として解説される「冨塚前遺跡」で、鎌倉時代から室町時代の住居跡の屋敷跡と比定される屋敷の区画溝の遺構と青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘されたことを指しているように思われる。
 このページにも、冨塚前遺跡の方形竪穴建物跡で倉庫や作業場と考えられる写真が掲げられ、冨塚前遺跡は室町時代の屋敷の一部とみられ、建物跡や井戸跡、陶磁器類や風炉(茶道用)・小型の仏像など出土したと解説する。
 また、井戸跡の写真も掲げられ、その井戸が、直径1m程の石積みの井戸で、多量の石で埋め戻されていて、鎌倉~室町時代の遺跡らしいことが解説される。
 更に、これが「日本地名辞典」が、「富塚在家」を「中通り北部、現在の福島市丸子字富塚前に比定される」としたことと重なるのだろうと想像する。
 なお、福島県の遺跡分布図が福島市の冨塚前遺跡とされる位置よりも西側の台地に寄っていることや、発掘調査地点が、福島県の遺跡分布図に近いように感じる事とも関わるのかな?
by shingen1948 | 2013-04-15 08:58 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)