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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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台畑(南矢野目)周辺を歩く⑨

 台畑の台地にこだわってみれば、冨塚前遺跡はその裾野が広がる南側の位置に相当するところだ。ここの古墳時代のムラの痕跡にこだわって確認すると、福島市の歴史に関わる資料ではその場所を「福島商業高校の西側に広がる遺跡です」と紹介される事が多い。その上、そのムラは以下のように洪水によって大きな被害を受けた事を想像される紹介をしている。

 古墳時代のムラでは「竪穴住居はすべて川砂に覆われて埋まっており、当時は洪水の被害が大きかったことをうかがわせます。また、当時流れていた小川の跡から、多数のつぶれた土器(甕や杯)がまとまって見つかりました。まつりや、おまじないをした跡かもしれません」
 その竪穴住居は、ここではおおよそ6m四方に堀りくぼめ、柱を立てて上屋を上げ、カマドは北側につくられていたとか。その住居が川砂に覆われて埋まっていただけでなく、そのカマドの天井はつぶれていて、カマドの基礎の部分と煙を家の外に逃がす煙道が残っていた状態だったとか。
 そして、そのカマドの中に土師器が置かれていたという状態で発見された事を解説する。
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 ちょっと拘っているのが、高低のイメージだ。散策を楽しんでいる者にとって、「福島商業高校の西側」という表現からは、字辰ノ尾や字北下河原の比較的低地をイメージする。その上で、「洪水によって大きな被害を受けた事」が紹介されると、さもありなんと思ってしまう。
 確かに、ここは台畑の台地の裾野という感じで広がった地形であり、台畑の台地からみれば低地ではあるのだが、南矢野目の字台と変わらぬ高さであり、字辰ノ尾や字北下河原から見れば、充分に台地が広がった地形になっている。
 堰の水路とのかかわりを意識すれば、この辺りは、丸子の字冨塚と字冨塚前の字界に沿って流れてきた堰が、南矢野目の字台の大字境を流れている。ただ、字冨塚と字冨塚前とはその高低差は大きくない。その高低差が大きいのは、字冨塚前と字辰ノ尾や字北下河原の字界だ。
 散策してのイメージを加えて確認すれば、冨塚前遺跡の古墳時代のムラは、台畑の高台の裾野から広がる台地に居住区を構えたが、それでもこのムラでは洪水によって大きな被害を受けたようであるという事かな。 ここが、松川の河岸段丘上というかかわりでもありそうだ。
 この後のこの台地にかかわる時代の変遷を意識すれば、奈良時代の初期には、台畑の台地東斜面に須恵器を焼く窯跡がつくられ、その後に奈良平安のムラが展開されるということかな。
 
 なお、この富塚前遺跡と重なって、屋敷の区画溝の遺構と青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘され、鎌倉時代から室町時代の住居跡の屋敷跡がここに比定されるらしい。
by shingen1948 | 2013-04-12 11:42 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)