地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅱ―2

 「よそ見編Ⅱ」で、海老名季昌氏の動向を整理しようとしている。その2として氏の妻である海老名リンさんを整理しようとしている。
a0087378_5423040.jpg この方は、「山本八重(楠戸義昭著)」では、門が閉まって城に入れなかった方として紹介されている。この夫海老名季昌氏は、ここでは以下のように紹介される。
 このリンの6歳年上の夫季昌(すえまさ)は、藩の俊才として前途を嘱望され、のちにパリ万博にも徳川昭武(あきたけ)に随行した人物である。この日彼は、若年寄としてわずかな少年・老年の兵を率いて鶴ヶ城の北出丸を守り、二日後に家老職に抜擢され、籠城線を指揮する一人となる。
 その藩重臣の妻であるリンが三の丸の埋門に達した時、すでに門は閉まっていて、頑として開けられる事はなかったとか。
 遅れた理由は、「20歳の海老名リン」は負傷した実父の日向新助を見舞っていて早鐘の音を聞いて、急いで家に帰った」ためと紹介し、その状況を以下のように描写される。
 「私は若年寄、海老名季昌の家内です」と叫んで開門を懇願したが相手にされず、「城には入れぬ、ぐずぐずせず、落ち延びよ」と馬上の武士に怒鳴り散らされた。重役の妻として、籠城して主君のために働こうとしたリンの気持ちは砕かれ、後ろ髪を引かれる思いで、会津高田へと逃げたのである。
 それで、確認したくなったのが海老名家の位置と、遅れた理由とかかわって海老名リンさんの御実家だ。
 御実家の方は、幕末の地図で確認すると直ぐに見つけられた。
 郭外ではあるが、三の丸の小田垣口の直ぐ前に「百石日向信助」宅が見える。「しん」の字が違うのだが、別資料に「嘉永2年小田垣に生まれる」をみる。ここを、現在の地図と重ね合わせると、三の丸の堀が陸上競技場の南側の道筋になっていて、その道筋が、陸上競技場と文化センター入り口付近からカーブを描き始めるのだが、ここが小田垣口であり、その道筋の南側に「百石日向信助」宅があったということのようだ。

 ただ、ここでは「実父の日向新助を見舞って」遅れたと描写されるが、別資料によると「8月23日戦で、父信介は大変な怪我をされ、病院に入院されておりました」というのをみる。それなら、その時点は、間瀬氏の時に整理した「慶応4年(1868)8月23日早朝、西軍が若松の城下に攻め込んで来た時点」と重なる。ここで、間瀬氏の整理では「城内から戻ってきた槍持ちの覚内に戦況を聞いてみると、戸ノ口原では味方の方が優勢で、敵を追い捲くっているということだった。
 ところが、突然早鐘が打ち鳴らされ、それからは大騒ぎとなった」と続く。
 ここで、リンさんは、実父信介氏が大変な怪我をして病院に運ばれたことを知らされたという状況だったという事なのだろうと思う。その想像された状況で読み返すと、その悔しさがより深く分かるような気がする。ただ、転勤族の方まで常詰の方が知らなかったという状況も。
 この入院された病院というのは、日新館に設置されたものかな?

 嫁ぎ先の海老名家の位置が分からないのは、海老名季昌氏の確認で、海老名氏が転勤族だからだというのは分かった。
 海老名家は、会津の常詰でないので応分の屋敷はないとのことだ。再掲になるが、生まれた頃は天寧寺の郭外に住んでいたが、父親が目付役となられて割場内に移られ、その後、空いていた山本家前の一柳家に移住しているところまで確認した。その後は会津を離れるが、安政6年に戻られるのは日新館の北側の御用屋敷らしい。
 ただ、慶応4年(1868)8月23日時点の海老名家の位置は今も分からない。
by shingen1948 | 2013-03-30 05:43 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)