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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅱ②

a0087378_5331696.jpg 「覚馬伝」等で、保守的な会津にあって、その母佐久が合理的で先取りの気性に富んだ方であることのエピソードに、種痘の話がある。
 「この恐ろしい病気を免れるには、江戸で行われている種痘しかない」とある。多分、これが、緒方洪庵が、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったことと対応するのだろうか。この牛痘法が日本で本格的に普及するのは、嘉永2年(1849)佐賀藩がワクチンを輸入して以降とのこと。
 「闇はわれを阻まず~山本覚馬伝(鈴木由紀子)」では、以下のように紹介する。
 
「種痘なんかしたら、みすみす命を落とすようなもんだ」
 そうした噂が広がって、領民ばかりでなく、藩士のかぞくですら尻込みした。佐久は城下の女性達に種痘の効用を説いて周り八重と三郎に率先して種痘を受けさせた。
 そのうちに越後で疱瘡が大流行し、またたく間に会津領内でも蔓延しだした。次々と感染して多くの人が命を落とし、失明やあばたの後遺症に苦しむ者が相次いだ。
 この時、佐久の説得で種痘を受けた者はみな感染を免れた。佐久の主張は見事に実証されたのである。 人々は、その勇気と先見の明にあらためて驚嘆し、賢婦人と言う評判は城下に知れ渡った。
 海老名季昌氏は、割場から弘化2年(1845)の山本家の前に越してくるのだが、実は、その少し前に疱瘡にかかって、その後遺症で歩行が困難になっている。佐久さんは、それを目の当たりにしているのではないかと想像する。
 季昌氏は、「病状が極めて重く死線をさまよったと聞きました。父上様母上様大変心配され手厚い看病のお陰で死を免れたということです」とある。
 佐久さんとの明かな関係性は、嘉永元年(1848)に、6歳になった季昌氏は山本家で学問を始めるということだ。しかし、彼女は、おおらかな性格で貧乏暮しを苦にもせず、困っている人を放っておけずに世話をするという方のようだ。先の「山本覚馬伝」では、覚馬の従5位追贈記念会の席上、西隣りの水島氏が、「先生のお宅は賓客の多いお宅でありました」と述懐している事を紹介する。
 ならば、越して来たばかりのお向かいの海老名家を放っておけるはずもなく、この種痘のエピソードには、季昌氏の存在が寄与しているのではないかとの勝手な想像を膨らませる。

 海老名季昌氏は、大河「獅子の時代」の平沼銑次(菅原文太)のモデルだとされる。また、若松市は、県内最初の市制施行だが、これに尽力した若松町長として知られるらしい。元治元年(1864)には、京都勤番として上洛し、蛤御門の戦いでも活躍して御使番、大砲組頭と出世していくが、今回のドラマには登場していない。
by shingen1948 | 2013-03-25 06:50 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)