地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第11話「守護職を討て!」

 ドラマでは、八重の弟三郎が京都行きを志願し、父権八に反対されても挑み続ける弟が描かれる。会津の中での京都動向とかかわる一つの動きだろうか。
 会津藩の京都動向とかかわる今回のドラマでは描かれない別の動きもあるようだ。
 例えば、「獅子の時代」の海老名季昌氏が上洛するのもこの頃らしいのだが、氏はこの頃まで北蝦夷地の警備と探検に関わっている。そこから、京都勤番を命じられて、会津を経由して上洛するらしい。
 ドラマでは、「池田屋事件」の責任をとるという理由つけで、秋月悌次郎が蝦夷地代官に左遷されてしまうように描かれる。この一般的な見方は、会津藩は身分意識が強く、身分の低い者が重用されることを嫌う風潮があったらしいこととのかかわりで捉えられるらしい。悌次郎は、家老横山主税に認められ、京都で外交交渉役に抜擢されたが、身分は低かったからだ。

 ただ、海老名季昌氏の動向を追えば、必ずしもそういう見方だけが正しいとも思えなくなる。
 季昌氏は、元治元年(1864)に京都勤番になるまで、文久元年(1861)から、父季久が蝦夷地(今の北海道)の軍事奉行になったため、共に渡海している。
 警備の本拠地箱館郊外戸切地を基点に、新たに北蝦夷地の警備を確実なものにするため、サハリンまでの探査と標津陣屋の建設を行っているのだ。更には、氏は蛤御門の変後、欧州遊学の命がくだって横山主税と共に、遊学に出かけるのだが、途中パリで山川大蔵、田中茂手木と出会っている。
 その注目は、この時の大蔵氏等は、幕府の樺太境界議定に参加してロシア入りし、その帰路のパリで季昌氏等に出会ったという状況だったという事らしいことだ。山川は、元々は攘夷論者だったが、この洋行によって西欧の情勢を見分した結果、見方を変えたともいわれているらしい。

 歴史に疎い者にとっても、確かに会津藩にとっての政局の表舞台は京都ではあったろうとは思う。しかし、今にもつながる北蝦夷地の確実な仕事ぶりも、会津藩にとって大切な役割だったのではないかとも思うのだ。それなら、そちらの仕事に回された事が左遷という範疇に入るものかどうかは分からない事とも思う。
 要は、会津藩は、多くの重要な仕事を抱え込みすぎていたという事が大切な視点なのではないのかなと勝手に思うのが、どうだろうか。

 政局の中心地京都でも、無理が重なっているようだ。
 この時、容保公の病は重く、食物も通らず衰弱が甚だしく、主治医も手をこまぬく状態だったらしい。それで、京都守護職の辞任を申し出るのだが、辞任は許されなかった。
 幕府にとっては、会津が京都から去らせるわけにはいかなかった。軍事力をもつということは勿論だが、孝明天皇の信任が厚いということがその理由らしい。のっぴきならない状態に追い込まれるその理由が、信任が厚いということであることが皮肉な運命とも見える。
 今も残る長州への恨みも、この信任が厚い事を裏切れない風土的な道徳心で、西国のように都会的にふるまえないこととかかわっているようにも思う。
 それにしても、前話が文久3年6月5日の池田屋事件で、以後の長州進発を踏まえて、佐久間象山暗殺事件が、その7月だ。次話の「蛤御門の変」は7月17日の出来事。ドラマでは、その間をゆっくり描いていく。

 エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第11話「守護職を討て!」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_11.html
 「守護職を討て!」
 容保(綾野剛)たちは都で長州軍の脅威にさらされていた。会津では、八重(綾瀬はるか)の弟・三郎(工藤阿須加)が、突然、都へ派遣される部隊へ志願して権八(松重豊)から激怒される。その頃、都では象山(奥田瑛二)が尊皇攘夷派の不逞浪士に暗殺され、覚馬(西島秀俊)は悲嘆する。そして、偵察により長州が容保の首をねらっていることを知った覚馬はさらに怒りを募らせていく。
 第11話 の関東の視聴率は、やや持ち直したものの14.3%だったとか。災害にかかわる友好関係を結ぶのに、同じ県内のF市では、その相手に拘ることなくさらりとニュースが流れる。これも土地柄。
by shingen1948 | 2013-03-22 05:47 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)