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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫の里の狐達⑳~信夫の里の独国和尚⑥

 延命地蔵堂前に建つ案内柱に、「のちに信徒の拠り処として建立されたのが延命地蔵堂で、延命地蔵尊と千手観音を祀ってあります」とある。
 そして、ここには「此僧ハ羽州五台山文殊菩薩(米沢)之折誓し、仏法の真密を悟る近世の名僧」の墓である「五台遍照独国大和尚」と大書した石塔があったという状況設定。
 疎いのでよく分からなかったが、詳しい人には、これらの状況からよくある風景だと見えるらしい。

 禅宗では、昔は高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)や敷地内に小さなお堂を建ててその墓を守るというのは、ごく普通に行われていたことらしい。一禅僧一代限りが禅寺の原則だったということにかかわるらしい。
 それなら、延命地蔵堂は、そういった感覚の名残なのかなというのが、散歩人の勝手な思いだ。

 ネットに流れる「女川町誌」の情報では、もう一カ所、光徳寺が独国和尚寄寓の地だとして紹介される。女川三十三観音の23番瑠璃観音に鉄五郎という方がかかわり、その氏が光徳寺近くにお住まいだった方とのかかわりから調査されたということらしい。想像するに、無涯氏と同じように、西国三十三観音の地とかかわらせる作業に従事された方ということだろうか。福島側の資料としては「福島市史」近世Ⅱに「南沢又の光徳寺・中町の塩沢無涯・常光寺などに寄寓し」とあることしか確認できない。確からしさは定かではない。
 それで、先には「信夫の里の狐達」のイメージにかかわる支障のない所だけ引用をさせていただいた。今回は、引用先を明らかにしているので、その「沢又邑に於ける独国和尚」の項をそのままお借りする。
 光徳寺住職小池正孝師の語る所によれば、独国和尚は住職ではなく暫く寓居して居たらしい。誠に質素であるが地方の信望が厚かったそうで、特に祈祷がすぐれて居て㈠或年旱魃のためこの寺から数丁南の小池に於いて、村人が雨乞いをした。神職数名熱意をこめて祈祷したが、聊かも気配だに見えない。そこに独国が黒染の衣を着て現れ、私が試みようと言って何か熱心にお経を読み、そして終わると声高に気合をかけ払子を池中に投げ入れたら、間もなく大雨が降って来たと伝えている。㈡生き物は殺してはならないと言い、着物を洗濯する時は先ずシラミを拾って紙に包み置き、それから洗濯してかわくとそれに振りかけて着たという。又庭の草を取る時は、むしり取るのは残酷だと言って、必ず抜き取るか堀り取ったという。遺物は地方民に数本の軸物と愛用したという黒塗りの経五寸もある椀があるという。書幅は見たが椀は所蔵者不在の為め見ることが出来なかった。鉄五郎は剣道に秀で、大和尚の伴侍として諸国を巡ったが、四倉に婿入りして世を終わった人物である。
 女川町教育委員会が整理する独国和尚略歴は、以下の通り。
 宝暦12年(1762年)    女川浜鍛冶屋(木村家)に生まれる
 享和 2年(1802年)   塩沢無涯(利作)と出会う
 文化 4年(1807年)3月 差塩  妙典-字石-行三霊塔建立
 文政 7年(1824年)   三十三観音建立(女川山地内)
 文政 8年(1825年)   金比羅大権現碑建立
 文政13年(1830年)    福島県川寒の塩沢家で入寂
by shingen1948 | 2013-03-20 07:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)